想像してみる。ひょっとして、あの棺は空だったのではないか。
オーフェンという主人公の「はぐれ旅」は、空の棺を埋めるところからスタートする。バルトアンデルスの剣を用いた実験に失敗し行方不明となったアザリーを、《牙の塔》は不名誉な存在、死んだものとして扱い、何も入っていない棺を葬った。キリランシェロはそれを欺瞞だと――「あるはずのものを、なかったことにする」ことだと暴きたて、代わりに彼自身の名を埋めることにした。新たにオーフェンと名を変えた少年は、結局「なかったこと」にされたアザリー、そしてキリランシェロ自身も「元に戻す」ことはかなわず、自ら名乗った“孤児”として生きていくことになる。
空の棺は「約束の地で」において、思いがけぬ形で読者の前に姿を現した。ただし、欺瞞であったアザリーのそれとは意味合いが異なる。
ヴァンパイアとの戦いで殉職した魔術戦士、アムサスは遺体の損傷が激しく、棺におさめられないまま葬儀が執り行われた。マヨールはアムサスの遺族に彼を悼む言葉をおくり、それをオーフェンは「空の棺になにかを詰める」行為なのだと、空っぽのものに意味を持たせたとマヨールに語った。つまりここでは、「ないはずのものを、あるようにする」ものとして空の棺は描かれているのだ。
この場面は、旧シリーズ時からの読者に感慨深いものを与えずにはおれない。マヨールを通してオーフェンの内心にはかつての自分の姿が去来しているだろう。それにオーフェンの台詞にあるように、原大陸に渡ってからの二十年、彼は開拓民や魔術戦士の空の棺を埋めてきたに違いないのだから。
(イールギットの墓は、これらふたつのちょうど中間にある)
こうしたモチーフ以外にも、「オーフェン」という小説はいくつかの構図が繰り返し登場する。
たとえばチャイルドマンとイスターシバ、オーフェンとアザリー、マジクとクリーオウという、「目的を遂行するため死に瀕している(年上の)女を止められない男」というものがそうだ。師から弟子へと受け継がれていった因縁――彼らは自分にはできなかったことを託していた――は、だがマジクによって断ち切られる。
この東部編(第二部)で物語は一旦完結するため、マジクがクリーオウを止めるのはある種必然ともいえよう。しかしながら、当初書かれる予定ではなかったはずの第四部ではこの構図が再び描かれていた。いうまでもなく、マヨールとベイジットである。これは設定の段階からすでに決まっていたのか、それとも実際に執筆するに当たって生まれたのだろうか? 「秋田禎信BOX」のあとがきを見るかぎりでは、前者のように思われる。
もう少し詳しく見てみよう。ベイジットは初登場のときからよく小アザリーだと言われてきた。確かに、規則を意に介さず周囲に迷惑をまきちらす行動をとる、というところは共通しているかもしれない。
しかし私は、ベイジットとアザリーはさほど似ているとは感じていなかった。
“ベイジットはアザリーと対比したくなるけど、本当に対になるのはオーフェンの方なのかと思ったり”
twitter.com/jimiyama/status/184948160823701504
“オーフェンが塔を飛び出したのも、魔術士社会に対する復讐というか当て付け的な意味が含まれてたのは間違いないだろうし”
twitter.com/jimiyama/status/184951647452139521
引用したツイートにある通り、私としてはベイジットが引き継ぐならばオーフェン(キリランシェロ)だという指摘のほうが腑に落ちるものがあったのだが、「鋏の託宣」でオーフェンの口から「ベイジット=アザリー」はあっさり認められてしまった。
規則に縛られない点は似ているとはいえ、ベイジットは魔術士社会への反発から、アザリーは規則そのものを無視しているという違いはあった。そして迷惑の規模も魔術士としての力量も、ベイジットはアザリーにはるかに劣る。けれども、確かに以前のベイジットは「天魔」と恐れられる災厄のような存在ではなかったかもしれないが、革命を志すようになった彼女を、スケールが小さいとはとてもいえないだろう。それにベイジットもまた惚れた男を自ら手にかけて前進することを選んだではないか。
とはいえベイジットをそっくりそのままアザリーと同一視する必要はない。失敗により《塔》から「追われた」アザリーとは違い、彼女は自らの意思で《塔》を、ひいては魔術士社会を嫌って出て行った。
同じことはマヨールにもいえる。レティシャに生き写しだというわりに、ふたりの対照性はあまりいわれることがないが、明らかにマヨールは「置き去りにされなかったレティシャ」である。顔が同じだから、というだけではない。「後継者」でレティシャはアザリーの葬儀に参列しなかったことを悔いていたことを思うと、自分から妹を追うマヨールはレティシャの姿見だ。別個の人物を同じものとして描くのは、なにもまるきり同じ行動をさせるばかりではない。正反対の行動も(作中にならって正逆と言うべきだろうか)その根拠となる。
また「鋏」でのラチェットとの格闘シーンは、「レティシャとキリランシェロ」と「マヨールとラチェット(エッジ)」が対比されているのだし、なによりオーフェンがこのように語っている。「君はアザリーと似たところがあるし、マヨールはティッシそっくりだ。」(「鋏」p299)
あるいはマヨールはレティシャと等号で結ばれるだけでなく、「《塔》に残った/アザリーを殺すために追うキリランシェロ」であるかもしれない。
つまりベイジットとマヨールは、オーフェン、アザリー、レティシャらの役割をある程度は引き継ぎつつ、彼らの別の可能性を表しているのだ。
ではクリーオウを止めたマジク、という形で一旦は完成した図式が、なぜまた登場しているのだろうか。第四部が出てからの疑問だったのだが、先日「ザ・ベスト・オブ・オーフェン」のインタビューを読んでいて、面白いことに気がついた。
“しかも自分で考えるんだけど、それに対する反論も芽生え、だんだん自分で自分にツッコミを入れるようになりました。聞いたものを素直に受け入れられない、平たく言うとあまのじゃくな人間ができあがってしまったんですね。僕の文章に「~かもしれない」って言葉が多いのは、僕の中でのそれに対する反論でもあったりするんですよ。自分で考えているんだけど、自分でさらにツッコミを入れる(後略)。このツッコミを入れる行為が、物事を考えるうえで重要なんです(だからみんなもテレビを見ながら突っ込め!)。”(「ザ・ベスト・オブ・オーフェン」p52)
小学校時代、通学時間が長かったために、ものを考えながら歩いていたということに続けてこう述べている。秋田の文体が反復しているのはよくいわれるところだが、先に述べたようにある図式が繰り返されるのも、いやそれどころか小説の構造そのものも反復――というより作家自身による「ツッコミ」だったのだ。
そこでふと、想像してみるのだ。「鋏」に出てきたあの棺。あれもまた、何も入っていない棺なのではないか、と。