前回、私はベイジットとマヨールを「アザリーであり、レティシャでもあり、そしてオーフェンでもある」と述べた。ところで、ベイジットは「優秀な家系で自分ひとりだけ出来が悪く、文武両道品行方正眉目秀麗な完璧超人の兄を持ち、自分の所属する閉じたことに満足しているコミュニティに不満があって、それを打ち壊そうとしている」わけだが……。どこかで聞いたような話だなあ。まあベイジットのほうはブラコンではないけれども。これは妹と弟の違いゆえなのやもしれぬ。
さて元祖不良少年ことサルア君は、西部編(第一部)においてはキムラックを開こうとする人物だった。純粋な、混じりけのない「正しい血」だと証明できない人間を拒む都市としても、そして徹底的な秘密主義の教会としても両方の意味での解放を目論んでいた。
それが「鋏の託宣」ではまったく逆に、商業都市ラポワント(原大陸における流通の拠点、つまり開かれた都市だ)を閉鎖しようとしている。さらには、市長としての務めを全うしているまさにそのときに家族を殺されており、これらから「鋏」のサルアは明らかに「我が神に弓引け背約者」をなぞっていることがわかる。できすぎたことに、下手人すら同じだ。
第四部が始まって以降、阿呆のひとつ覚えのようにサルアはまだかサルアはまだかとわめいていた私は、「鋏」のページを繰りながら真綿で首を絞められるような心地を味わっていた。いかにも期待できそうな描写がちらちらと続くからだ。そんな中訪れたサルアの初お目見えは、カーロッタ寄りの議員と白昼派手に対立するという一幕だった。もっともこれは、取り引きのうえで行われたパフォーマンスだそうだが。そして「背約者」でのサルアは、自尊心の満たされなさから増長に陥ったマジクを諭していた。迷える若人を見かけると説教せずにはいられない、まさしく「ホンモノの説教屋」の面目躍如といえよう。――ということはつまり、このときも「道化をやっているときに兄貴を殺された」と思ったの? ねえねえ思ったの?
……話を元に戻そう。「約束の地で」にてボリーさんはこのように語った。「(前略)人の意思には、しがらみを切り払って外に進むものと、外部から自分のいる場所だけを切り取って内にこもるもの、両方がある。」(BOX版「約束」p460-461)
友人との縁に「鋏を入れて」進むオーフェンと、市と市民を守るというしがらみにとらわれて都市を閉じる――内にこもるサルアという図式は、ボリーさん言うところの「天使と悪魔」にぴたり当てはまる。
なんということだ、彼らは「同質で正逆」だったのだ、と思い至ったときの私の驚歎たるや。なにせあのサルアが。アニメ版マンガ版あらゆるメディアでスルーされ担当編集者にも忘れ去られていたあのサルアが。知名度も人気もさっぱりなあのサルアが。ほかでもない物語の核たる存在の主人公と同質で正逆。ああ、感に堪えぬ。
これはあながち、とにかくサルアを贔屓したおしている人間の妄想とばかりもいえず、ほかにも幾つかの点から「サルアはオーフェンと同質で正逆」と読むのは間違いではないと思われる。……たぶん。
たとえば、原大陸に渡ってからの彼らの家族についてだ。オーフェンはクリーオウと結婚して三人の娘をもうけた。つまり、血の繋がった家族だ。一方サルアも家族を得ているが、こちらは血縁に寄らない。メッチェンはもちろんのこと、ラポワント村民/市民も含む。オーフェンがタフレム式に親しんだ、というか孤児が多く教室のメンバーが家族同然となる《牙の塔》の出身で、サルアが血統を重視するキムラック教徒というのも見逃せないポイントだ。また旧シリーズでオーフェンはそんな家族を失っていて(消失したアザリーもそうだし、レティシャに至っては「捨てた」と明言している)、サルアも肉親を死なせていることをつけくわえてもいいだろう。
市民がサルアにとっての家族であるというのは、はたして言いすぎであろうか? だが「キエサルヒマの終端」での「俺だってキムラック人だ」という台詞から、彼の故郷に対する思い入れがうかがえるのだし、「先祖代々住んできた土地を離れることができなかった難民」とはサルア自身のことを語っているとも取れる。
それに崩壊したキムラックへ舞い戻った理由は、「元教師として」の責任感からというもののほかに、自分自身も崩壊の一端に関わっているという思いもあったのではないか。サルアとメッチェンは教会の変革を目論んだが、それは果たせなかった。けれどもカーロッタの述懐の中で、彼らが望んだ形ではないにしても、教会に変化が起きることはほのめかされてはいる(そして実際にそれは訪れたのだ)。クオやラポワントといった幹部格が存命であれば、外輪街の蜂起や騎士軍の派遣要請などは起こらなかった、とまではいえない。それでも、特にサルアは考えずにはいられなかっただろう。自分が死なせた兄の存在を背負っている姿を見れば容易に想像できる。
最後に生き残った教師として舞い戻ったものの、サルアにできたのは取り戻すことなどではなく、「外に進む」ことだけだった。故郷を取り戻そうと戦う人々にその地を諦めさせ、さらには(カーロッタ派との抗争の中で)教義をも棄てさせている。だからラポワント市は自らが壊し、そしてついに取り戻せなかったキムラックでもあるのだ。
亡兄の名をつけたことからもわかるように、ラポワント市にはサルアの家族への感慨がこめられている。家族、ひいては生まれることのないわが子という意味合いもあろう。
そしてもちろん、オーフェンも「約束の地で」で語られたように、自らを決して許さないだろうキエサルヒマへの望郷の念を忘れてはいないのだ。
そういえば、「あいつがそいつでこいつがそれで」連載時にも、オーフェンとサルアは対比できるのではないか、と考えた記憶はあるのだが、その根拠は忘れてしまった。
オーフェンと同質で正逆である、という目線からあらためてサルアを見てみると、「終端」のある場面がちょっと違った絵面に見えてくる。つまり、オーフェンが魔王の力について語る場面だ。ここと、「鋏」のオーフェンとサルアの会話は「対」になっている。その構図が目の前に広がったとき、私は自分の頭を殴りたい衝動に駆られた。ウェブ連載時はもちろん、書籍化されてからもずっと「サルアはかっこいいなぁ」と呑気な感想しか抱いてこなかったからだ。
まず「終端」の一幕は、サルアがドアをノックしてオーフェンのいる部屋に入るところから始まる。そして「鋏」では、オーフェンが出向くとサルアのほうからドアを開けて入室をうながす。視点の人物が部屋を出て行くところで場面が切り替わるところも共通している。
そして彼らの間で交わされる会話も「余人に漏らせない本音」だ。オーフェンがサルアにこそ(あえて“こそ”といおう)魔王の力について告白したのは、たまたまサルアがそこにいたからという理由ではないと思う。ただの愚痴や弱音とは異なる話であるから、「教師としての」サルアに吐露したのだ。そしてなにより、彼らが「同質で正逆」だったからかもしれないとすら思える。あの場にいたのがクリーオウやマジク、もしくはチャイルドマン教室の面々であれば、オーフェンは魔王の力についてどう語ったのか。あるいは語ることがあったのだろうかと考えてみるのも面白い。
「終端」でオーフェンが投げかけたボールを、サルアは(おそらくは)適切に受け止め、投げ返した。今度は逆にサルアが投げかけたわけだが、それに対するオーフェンの答えは、はたしてサルアの肩の荷を減らしたとはとても思えない。おそらくこの場面の後の姿が描かれることはないだろうから、読者としてはむなしく想像するのみである。
「メッチェンの腕も治せる」という台詞は、「子どもを産める身体にできる」と読んでもかまわないのではないか、と以前言った。だが「終端」と「鋏」を比べると、そういう意味を含ませて書かれたものだと思える。例えオーフェンがそう意図していなかったとしても(もちろん、サルアがそのように受け取っていなかったとしても)。そうすると「対」の構造がなおはっきりする。
それにしても、そう読むとひどく暴力的ではないか? 夜更けに複数の男が“この場にいない女”について語り合うというのは、わざわざ「源氏物語」の「雨夜の品定め」を例に出すまでもなく「きわどい」ものを連想させるし、しかも俎上に乗っているのはメッチェンの身体である。だがその無残さが「鋏」ではさらに際立つのだ。
「終端」でサルアは、「オーフェンが魔王の力を行使した世界は、もうオーフェン自身も他者も人間ではいられない」と説いた。翻って「鋏」ではなぜカーロッタを殺さなかったのだと(そう、オーフェンは殺せなかったのではない。殺さなかったのだ)――もっとはっきり言えば「お前が力を行使しなかったがためにメッチェンは死んだ」とオーフェンをなじっている。むろんここでいう力とは、死者復活をも可能にする万能の無制限力を指すのではない。真に見るべきは、「力を行使する意思」と「行使しない意思」である。
つまりメッチェンの身体を軸にして、「生誕と死」「生まれるかもしれない子と、ついぞ生まれなかった子(=ラポワント市民)」「力を行使することと、行使しなかったこと」が対になって展開している。さらにいえば、どちらの場面でもメッチェンは「眠りに就いている」のだ……
最後に、ひとつ問いを立ててみよう。ウォーカーの素質があると評されたオーフェンは、サルアを――しがらみを断ち切らないことを選択した「人間」を部屋に残して出て行った。縁を代償にして得られる力とは、なに?