10.
動物園へ行った日の出来事は、先輩の心に大きな影を落としていた。
彼はあれ以来、マミにすごく気を遣うようになった。そして僕も同じように、彼女に気を遣うようになっていた。
3人並んで歩く時、先輩は時々マミの呼びかけに気付かない時がある。
そんな時僕はちゃんと先輩に、「マミちゃんが何か言ってるよ」と教えてあげるようにしていた。
マミはわけもなく不機嫌になったりするような人ではない。あの日以来、彼女が二度と怒ったりするような事はなかった。
マミは僕たちがどれほど彼女に気を遣っているのか知りもせず、いつも機嫌良さそうに笑っていた。
夏の日差しの下で微笑むマミはいつも輝いていて、先輩の目にはそんな彼女が眩しく映っていたに違いない。
あれはたしか、新学期が始まる4日前の事だった。その日もやっぱり暑かったけど、時々吹く風はなんとなく秋の香りがした。
もうすぐ夏休みが終わってしまうという事で、僕たちはそれを惜しむように3人の思い出の場所を歩き回った。
僕たちがお金のかかる映画館や動物園へ行く事は稀だった。
僕と先輩はマミに会いに行くたびに高い交通費を支払っていたから、それ以外に遊ぶためのお金を捻出する事は難しかったんだ。
マミとはいつも通りに駅前で待ち合わせをして、僕たちはその後幅の広い通りを散策して歩いた。
最初は本屋に立ち寄って、新刊のコーナーで少し立ち読みをした。
その時先輩は、山のように積まれた本の前に立って推理小説を手にしていた。
駅前の本屋は壁一面がガラス張りになっていて、太陽の明るい光が店内を照らしていた。
僕は興味のない本を手に持ちながら、真剣に活字を追いかける先輩の目をチラッと横目で見つめていた。
そしてその視線に気づいた彼は、僕が手にしている本を覗き込んでまた活字を目で追いかけた。
そんな時間を過ごしていると、好きな作家の新刊が出ていた事を、マミが僕らへ報告しに来た。
本が好きな彼女はその作家の事を夢中で話し始めたけど、その声が大きくなりすぎて最終的には店員に睨まれてしまった。
本屋を飛び出した僕たちは、その先にある赤い屋根のアイスクリーム屋へ立ち寄った。
そこは愛想の悪いおばさんが1人でやっている店で、アイスクリームの味は絶品だった。
先輩はそこでバニラアイスを注文し、僕はチョコレートアイスを注文した。そしてマミは、バニラとチョコレートの二段重ねを注文した。
そのアイスクリームは、柳田先輩のおごりだった。彼はその時、マミにだけ二段重ねのアイスクリームを注文するように勧めたのだった。
僕はこんな時、マミが先輩にとって特別な存在であるという事をいつも思い知らされていた。
アイスクリームは白い紙のカップに入っていた。僕たちは透明なスプーンを使って、少しずつ冷たいアイスクリームを頬張りながら歩いた。
通りかかったドラッグストアの中を覗くと、そこには若い女の子たちがいっぱいいた。僕は1年以上も男子寮で暮らしていたから、女の子の団体を見るとすごく新鮮な気持ちになった。
銀行の前を通り過ぎた時、柳田先輩が半分食べたバニラアイスのカップをさっと僕に差し出した。
僕は彼の優しさがすごく嬉しかった。先輩は僕にもちゃんと2色のアイスクリームを食べさせようとしてくれたんだ。
その時、僕はもちろん自分が食べていたチョコレートアイスのカップを彼に渡した。僕だって先輩に2色のアイスクリームを食べさせてあげたかったからだ。
ふと気付くと、先輩から受け取ったカップの中には彼が使っていたスプーンが入ったままになっていた。
それに気付いた僕は、少しドキドキしながら先輩に僕が使っていたスプーンをそっと手渡した。
すると彼は迷う事なくそのスプーンでチョコレートアイスを食べ始めた。
僕はたったそれだけの事で体が熱くなっていた。
その時は平気な顔をしてアイスクリームを食べていたけど、冷たい感触が何回喉を通り過ぎても体の熱が収まる事はなかった。
アイスクリームを頬張りながらしばらく歩き続けると、そのうちに噴水のある広い公園が見えてきた。
その公園は繁華街の真ん中にあって、平日には仕事中のサラリーマンをよく見かけた。
彼らはどんなに暑い日でも長袖の上着を羽織り、太陽の下を颯爽と歩いて行った。噴水の水をかけ合ってはしゃぎ回る僕らは、彼らの目にどのように映っていたのだろう。
マミは小さな犬を連れて噴水に近づく女の人に気付き、その人に犬の名前を聞いた。
彼女はその後飼い主に聞いた名前を小さくつぶやき、真っ白な犬の頭をゆっくりと撫でていた。
そして先輩は、赤いブラウスを着た彼女の背中をじっと見つめていた。僕はそんな時、必ず先輩にテレパシーを送った。
『先輩、こっちを向いて』
僕は心の中で先輩に何度も呼びかけた。でも彼はその声を聞かずにずっとマミの姿を見つめていた。
彼の短いまつ毛が少しでも動くと、僕は彼が自分を見てくれる事を期待した。
でもそれは単なるまばたきでしかなく、最後まで彼の目を自分に向けさせる事ができなかった。
あっという間に夕方になって、マミとのお別れの時がやって来た。
太陽の日差しは昼間のものとは少し違っていたけど、夕方になってもまだ外は暑かった。
「もうここでいいよ」
マミは僕らを駅まで送ると言ってくれた。でも先輩は駅へ向かう途中の交差点へ辿り着いた時、そう言って彼女を制した。
先輩はその時少し淋しそうな顔をしていた。それはきっと、夏休みが終わるとどうしても彼女と合う頻度が少なくなってしまうからだ。
先輩はマミの顔をろくに見ようともしなかった。
彼は横断歩道の手前で立ち止まり、目の前を通り過ぎる車の向こうの赤い信号機を見つめていた。
そして僕は、そんな先輩の横顔をじっと見つめていた。
先輩の髪は太陽が当たって白く光っていた。そして、ビル風に吹かれて黒いティーシャツが膨らんでいた。
その時マミは、風に乱れる髪を両手で必死に押さえながら、先輩の横顔を見つめていた。彼女はその時、珍しく神妙な顔つきをしていた。
僕は一瞬、自分がそこにいてはいけないような気がした。
彼と彼女は2人きりで別れの言葉を交わそうとしている。僕には2人がそんなふうに見えた。
信号が青に変わったら、1人で駅まで走ろう。僕はその時そう思っていた。
愛情たっぷりの言葉を交わして別れる彼らを見たくなかったし、かといってそうするべき2人の邪魔をするのも嫌だったからだ。
視線の先には横断歩道のストライプがあった。車が目の前を通り過ぎるたびに、白とグレーのストライプが見え隠れしていた。
『僕、先に駅へ行って待ってます』
信号が青になってストライプの道が開けたら、そう言って駆け出そう。僕は心にそう決めて、信号が青になるのを今か今かと待っていた。
僕はとにかく先輩の前で気の利いた後輩を演じようとしていたんだ。
歩道のアスファルトはすごく熱かった。信号が変わったらすぐ駆け出したいと思っていたのに、靴底のゴムがベトベトに溶けて歩道に貼り付きそうな気がしていた。
そのうちに、目の前を通り過ぎる車の群れが一斉に速度を落とし始めた。
今こそ信号が青に変わる。そう思った時、僕の耳に小さくマミの声が響いた。
「私……もう柳田くんに会えないかもしれない」
僕はマミがどんな顔をしてそう言ったのか全然分からなかった。その時は目の前に現れたストライプの道を、じっと見つめていたからだ。
信号が青に変わった瞬間に先輩の顔を見つめると、彼は淋しそうな表情を崩さず僕の隣にいた。
「先輩、列車に間に合わなくなっちゃうよ!」
僕はその時、彼の腕を引っ張って横断歩道の上を駆け出した。
僕には分かっていたんだ。先輩の耳にはマミの残酷な一言が聞こえていなかったという事を。
「マミちゃん、またね!」
2人で横断歩道を渡りきった時、後ろを振り返ってマミに手を振った。すると先輩も、同じように振り返って彼女に手を振った。
マミはストライプの向こうに立ち尽くし、輝くような笑顔で僕らを見送っていた。
彼女の赤いブラウスがとても眩しかった。
マミはこんな時でさえとてもかわいかった。
パッチリした目は真っ直ぐに僕らを見つめ、サヨナラと手を振る代わりに彼女の長い髪が揺れていた。