9.

 僕と先輩は夏休み中何度かマミに会いに行った。
僕は彼女が先輩に送ってくるメールを毎日覗いていたけど、そこから分かる事はマミが案外僕を気に入ってくれているという事だった。
なにしろ僕は、彼女にかなり優しく接していた。 でもそれは彼女に気に入られるためというより、優しい僕を先輩に見てほしかったからだ。

 とても暑かったあの日、僕らは3人で動物園に出かけた。そして僕は、完璧に見えるマミの愚かな部分を知ってしまった。
世間は夏休み中だったから、動物園の中は人が溢れていた。
マミはその日、僕たちのために弁当を作ってきてくれていた。
その日の彼女はいつも通りにかわいかった。日よけのための白い帽子がよく似合っていたし、薄い黄色のワンピースも彼女のイメージにぴったりだった。
僕たちはいつも先輩を真ん中に挟み、3人並んで歩いていた。
太陽が照り返すアスファルトの上を歩くと、サルやライオンの姿が少しずつ近づいてきた。檻の中の動物たちは、太陽の熱を浴びてすっかりのびていた。
僕はその時サル山を指さして先輩に何かを話していた。すると先輩は僕の声にすぐに応えてくれた。
僕らがその時何を話していたのかは、よく覚えていない。でもきっと、それはくだらない話に違いなかった。
時々前方から小さな子供が走ってきて、僕らの行く手を阻んだ。僕が覚えているその時の記憶は、たったそのぐらいの事だけだった。

 「ねぇ、聞いてるの?」
彼女が怒ったように叫んだのは、ちょうどその時だった。
僕はそこから後の事は、細かいところまで全部頭に記憶している。
僕と先輩はそのきつい口調に驚き、すぐに後ろを振り返った。
マミはその時、何かに腹を立てて歩く事すら嫌になっているようだった。その証拠に、並んで歩いていたはずの彼女はいつの間にか僕たちの数メートル後ろで立ち止まっていた。
いつも穏やかなマミが、その時はとても不機嫌そうな顔をしていた。
白い帽子のつばが影を作って彼女の目はよく見えなかったけど、とにかく怒っている事だけは明らかだった。
「さっきから話しかけてるのに、どうして返事をしてくれないの?」
彼女はその時、柳田先輩に向かってそう言った。すると先輩は慌ててマミの元へ駆け寄り、彼女をなだめようとした。
僕はじっと動かずに、2人の様子を少し離れた所から眺めていた。
先輩はマミに何度も謝っていた。僕との会話に夢中で彼女の声がよく聞こえなかったという事も、何度も説明を繰り返していた。
だけどマミは、なかなか機嫌を直そうとはしなかった。
彼女はろくに先輩の目も見ず、口を尖らせて足元に落ちている紙くずを蹴ったりしていた。
そんな2人の横を、楽しそうにはしゃぐ子供たちが次々と駆け抜けて行った。
あの時2人を照らしていた太陽の光と、子供の笑い声。それは、強烈な印象を残して僕の頭に刻まれる事となった。

 しばらく話し合った後、2人はやっと和解した。
その後先輩は彼女の手を引いて僕に近づいてきた。
先輩はその時、ちょっと伏し目がちだった。そしてマミも、あまり元気そうには見えなかった。
「お昼ご飯を食べようよ」
どうやら彼女は、先輩に何度かその言葉を投げ掛けたらしい。 だけど一度も返事がない事に腹を立て、むくれてあんな態度を取ったようだった。
「ジュースを買ってくるから……そこに座ってて」
先輩はそう言って木陰のベンチを指差した。僕とマミはそこへ座って、先輩がジュースを買ってくるのを待つ事にした。
僕はその時、売店へ向かって走り去る先輩の背中をじっと見つめていた。
紺色のティーシャツを着た背中が、とても小さく見えた。本当はその時、すぐに先輩を追いかけて彼を抱き締めてあげたかった。
「柳田くんは、いつもこうなの」
その時、マミが小さくそうつぶやいた。
「あの人、私の話なんか全然聞いてくれないの。話しかけても、返事もしてくれないの」
僕はそう言って俯く彼女を、隣でじっと見つめていた。
彼女はその後静かに帽子を脱いで、両手で長い髪をかき上げた。そして、1つ大きくため息をついた。
「さっきのは僕のせいだよ。先輩はきっと僕の声がうるさくてマミちゃんの声が聞こえなかったんだ。嫌な思いをさせちゃってごめんね」
僕は彼女に優しい言葉をかけるのを忘れなかった。マミはその一言で、すっかり元気を取り戻したようだった。
僕はその時、にっこり微笑む彼女を本当に愚かだと思っていた。

 彼女は何も分かっていなかった。きっとそうじゃないかと思ってはいたけど、やっぱり何も分かっていなかった。
僕は再び目線を前に戻し、人ごみの中に先輩の姿を探した。だけどその時、すでに僕の視界から先輩の姿は消えていた。
木陰のベンチに座ると、涼しくなって体の汗が乾いた。
僕はその後も、太陽に目を細めながらしばらく先輩の姿を探し求めていた。
マミは何も分かっていなかった。彼女は先輩の事なんか何一つ分かっていなかった。僕はその事が腹立たしくもあり、同時に嬉しくもあった。
先輩は、右の耳が聞こえない。彼はその事を誰にも言っていないようだったけど、僕はちゃんとそれに気付いていた。
だから僕は、先輩と一緒に歩く時は絶対に彼の左側を歩くようにしていた。くだらない話をする時も、内緒話をする時も、僕は絶対先輩の左側に居るようにしていた。
僕ならあんなつまらない事を言って先輩を困らせたりしない。僕なら絶対に先輩を悲しませたりなんかしない。
マミが先輩を思う気持ちより、僕が先輩を思う気持ちの方がずっと大きい。
僕はあの日から、その事を誇りに思うようになっていた。