11.
『私……もう柳田くんに会えないかもしれない』
彼女はたしかにそう言った。その声は今でも耳に残っている。
だけど僕は、彼女がどういうつもりでそんな事を言ったのか分かっていなかった。
夏休みが終わって新学期が始まっても、先輩とマミは今までと変わらずメールのやり取りを続けていた。
そしてマミはその中で、受験勉強があるから今までのようには会えないというニュアンスの事を、幾度か先輩に告げていた。
そしてたしかに、先輩とマミは9月の1ヶ月間一度も会う約束を交わしていなかった。
10月初日。午後8時10分。
先輩はたった今部屋を出てシャワーを浴びに行った。
そして僕はいつものようにドアに鍵をかけ、先輩の携帯電話を開いて履歴を確認していた。
携帯電話を持つ手は少し冷たかった。10月に入って、夜はだいぶ気温が低くなっていた。
マミからのメールの数は、以前よりちょっと少なくなっていた。そしてその内容は、以前と変わらず平凡なものばかりだった。
さっき友達に誕生日プレゼントを渡しました。
プレゼントはクマのぬいぐるみだったんだけど、喜んでくれてほっとしました。
先週数学の小テストがあったんだけど、今日その答案が返ってきました。
あまり出来なかったとは思ってたんだけど、やっぱり点数が悪かった。
クラスの平均点より少し高いぐらいかな。
もっとがんばらなきゃいけないよね。
僕はそんなたわいのないメールをさらっと読み飛ばし、1番新しいメールにゆっくりと目を通した。
それはきっと、先輩が待ちに待ったメールの内容だった。
今度の日曜日、久しぶりに会わない?
都合がよかったら、いつもの時間に駅で待ち合わせしようよ。
もちろん高橋くんも一緒に連れてきてね。
しばらくすると、先輩が部屋へ戻って来た。
背中の後ろでドアの開く音がして、足音がゆっくり近づいてきた時、僕はドキドキしながら机に向かって勉強しているフリをしていた。
その時先輩の携帯電話は、ちゃんと彼の机の上に戻されていた。
「また勉強してるのか? 少し休めよ」
先輩は僕の横に座って、濡れた髪の毛をタオルでこすっていた。その時、一瞬シャンプーの香りが僕の鼻をついた。
彼は青っぽい色のティーシャツを着ていて、やがてその上にグレーのパーカーを羽織った。
「今度の日曜日、町へ出ないか?」
先輩は机の上に肘をついてそう言った。僕は彼の上気した頬を見つめながら、遠慮がちに小さく頷いた。
その時濡れた髪から雫が1つ滴り落ち、彼は慌てて机の上をタオルで拭った。先輩がマミと初めて会った時の事を話し始めたのは、ちょうどその後の事だった。
「あれは6月の初め頃だったかな。あの日は日曜日で、友達と一緒に町へ出たんだ。
だけど途中ではぐれちゃって、俺はしばらく友達を探して歩いたんだ」
先輩はもう机の上に雫が落ちても気にしなかった。彼はただぼんやりと宙を見つめながらその話をしてくれた。
「駅へ行ったり、本屋を覗いたり、トイレを見に行ったり……多分30分ぐらいはそうやって友達を探してた。
そしてもう諦めかけてた時、マミちゃんが俺に声を掛けてくれたんだ」
「……」
「俺はその時キョロキョロしてたから、道に迷ったと思われたんだ。マミちゃんは俺をつかまえて、どこへ行きたいの? って言ってくれたんだ」
僕はその話を聞いているのが、少しつらかった。先輩の声が、すごく弾んでいたからだ。
「その後事情を話したら、彼女も一緒になって友達を探してくれたんだ。結局友達は見つからなかったけど……あれが彼女との始まりだった」
先輩は眠そうな目を僕の方へ向けた。彼の頬が少し赤いのは、きっとシャワーのせいではなかった。
僕はその夜、消灯が過ぎてもなかなか寝付けなかった。頭の中にいろんな事が浮かんできて、いつまでたっても気持ちの整理がつかなかったんだ。
『あれが彼女との始まりだった』
そう言った時の先輩はすごく素敵だった。その短い一言の中には、マミに対する先輩の愛情がたっぷり込められていた。
その言葉を聞いた時、僕はマミに激しく嫉妬した。
でも彼女に一度会えば、誰でも先輩の気持ちを理解するだろう。マミはかわいくて優しくて、誰にでも好かれる人なのだから。
『私……もう柳田くんに会えないかもしれない』
マミが言ったあの一言は、受験勉強があるからしばらく会えなくなるという意味だったに違いない。僕は布団に潜りながら、そういう結論に達していた。
だって、あの後もマミと先輩の関係はちっとも変わっていない。2人は毎日お互いの近況を知らせ合っていたし、最終的にはマミの方から先輩に会いたいと言ってきた。
僕はもう彼女に会わない方がいいのかもしれない。そんな事を続けたら、自分がもっと傷つくだけだ。
でも先輩とマミが会っている事を知りながら、1人で彼の帰りを待つのもすごくつらい。
きっと落ち着かない気持ちで部屋の中をウロウロし、2人が今どうしているかをずっと考えてしまうだろう。
そしてやっと帰って来た先輩の頬は赤く染まり、彼の口からマミと過ごした時の事を聞かされるんだ。
そんなのつらすぎる。きっと僕は、そんな時間にそのうち耐えられなくなる。
今度の日曜日、先輩と一緒にマミに会うべきかどうか。
僕はその夜、数式を解く時のように自分がどういう答えを出すべきか考え続けた。だけどいつまで経ってもその答えは出なかった。
結果的に僕は、日曜日にマミと2人きりで会う事になってしまう。
でもその時の僕は、まだその事を知らなかった。