12.
マミとの約束の朝がやってきた。
その日はとても寒かった。きっと、前の晩どこかの山に雪が降ったのだろう。
「俺……風邪ひいたみたいだ。頭が痛いし、腹も痛い。だからお前、今日は1人で行ってくれ」
先輩は朝食も食べず、ベッドから起き上がる事もせず、布団に包まったままでそう言った。
僕はその時、すっかり出かける用意をして床の上に立っていた。
だけど先輩を1人残して出かけられるはずなんかなかった。
「そんなのダメです。マミちゃんは先輩に会いに来るんだから、僕が1人で行っても意味がありません」
先輩の顔色はたしかに良くなかった。眠そうな目は少し充血していたし、肌の色もなんとなくくすんでいた。
「彼女にはさっきメールで俺が行けない事を伝えておいた。マミちゃんはそれでもいいって言ってたから、お前1人で行ってくれ」
「そんなの嫌です。先輩の事が心配だし……」
「俺は1人で平気だよ。マミちゃんはせっかく今日時間を空けてくれたんだ。すっぽかしたらかわいそうだろう?」
先輩は決して起き上がろうとはせず、真っ赤な目を両手でこすりながら僕に言った。
彼はいつもマミの事を1番に考えていた。
僕がマミと2人で過ごす事にはなんの意味もない。でも先輩は、わざわざ時間を作ってくれた彼女の相手をしろと言う。
そして僕は、結局いつも彼には逆らえなかった。
1人でバスと列車に揺られて行くのはとても淋しいものだった。
でも1人で部屋に残った先輩だって、きっと同じように淋しいはずだ。
僕は自分にそう言い聞かせ、初めてたった1人でマミの元へ向かったのだった。
その日の空は薄い灰色だった。そして、外の空気はなんとなく張り詰めていた。
待ち合わせ場所の駅前には、少し前まで花壇に花が咲き乱れていた。でもその花はどうやら枯れてしまったようで、その時はもうすべて刈り取られていた。
「高橋くん!」
土だけになった花壇の前で立っていると、やがてマミがそう言って僕の背中をたたいた。
外はとても寒かったから、その日は僕も彼女も首にマフラーを巻いていた。
マミは目の覚めるような赤いハーフコートを着て、長い髪を頭の上で1つに束ねていた。そしてはっきりと露になった耳も、寒さのせいで赤くなっていた。
「その髪、かわいいね」
僕は手始めにそう言って彼女を褒めてやった。するとマミは満足そうににっこりと微笑んだ。
僕はその日、うんと彼女に優しくしてやろうと思っていた。そうすれば、きっとその事を彼女から先輩に伝えてもらえると思ったからだ。
こうして僕は、いつも下心を持って彼女に優しく接していた。
僕らはその日、どこかへ出歩くという事はしなかった。
どこへ行っても寒そうだったから、2人とも暖かい場所に居たいと思っていたんだ。
いつも行く本屋の向かい側にバーガーショップがあったので、僕たちはとりあえずそこへ行こうという事になった。
そして結局、僕とマミは1日中そこで過ごす事になってしまった。
僕たちは最初、温かいココアを飲みながら2階の窓際の席で向かい合って喋っていた。
空は曇っていたけど、時々顔を出す太陽は窓ガラスの向こうから僕たち2人を照らしてくれた。
僕たちは硬い椅子に腰かけて長々と話を続けた。でもその時喋っていたのはマミの方だけで、僕はほとんど聞き役に回っていた。
マミはいつも通りにかわいかった。パッチリした目がいろいろな表情を見せ、1つに束ねられた髪は光っていて、コートの下に着ているセーターがすごくよく似合っていた。
そんな彼女を見つめていると、僕はどんどん自信を失くしていった。
ココアが冷めてしまうと、僕らはハンバーガーを食べて腹ごしらえをした。
特大のハンバーガーにかじりついた時、ふと先輩の事が気になった。彼はちゃんとお昼ご飯を食べているだろうか。
「ねぇ、ちょっと手を見せて」
僕が先輩の事を思い出していた時、マミが突然そう言って僕の左手を取った。僕はその時右手でハンバーガーを持ち、左手は彼女の手に握られていた。
「私、手相を見るのが好きなの。高橋くんの手も見てあげる」
マミは食べかけのハンバーガーを白いトレイの上に置き、軽く握られていた僕の手を開かせた。
彼女の手はとても小さくて、よく見ると爪にマニキュアが光っていた。でもそれは清楚な彼女らしく、ほとんど色の付いていない透明なマニキュアだった。
「僕は長生きできそう?」
手相なんてバカバカしい。本当はそう思ったけど、とりあえずは彼女に話を合わせた。
「うん。高橋くんは長生きするよ。それに、頭がいいのもちゃんと手相に出てる」
マミは僕の掌を真剣に見つめ、マジメな口調でそう言った。そして彼女はこう続けた。
「それから、高橋くんの事を想っている人が、すぐ近くにいるみたい」
「手相でそんな事も分かるの?」
「分かるよ。高橋くんは今すごく愛されてる。すぐ近くにいる人に、すごく愛されてるよ」
そう言って顔を上げたマミは、少し頬が紅潮していた。
彼女は上目遣いで僕を見つめていた。彼女が僕を見つめる目は、僕が先輩を見つめる目と同じだった。
僕はその時、自分の計算が狂った事を初めて知った。
「……マミちゃんの手相はどんなふうなの?」
僕はひどく冷静な口調で彼女の目つきを跳ね飛ばした。でも本当は、心臓が壊れそうなほどドキドキしていた。
マミは僕の手をパッと離し、自分の手の行き先を食べかけのハンバーガーに求めた。
彼女は両手でハンバーガーを持ちながら、小さくボソッとこう答えた。
「私は、あまり長生きできないみたい」
夕方、僕と彼女は駅で別れた。
僕は別れの時間がきた時すごくほっとしていた。マミと2人きりで居るのはあまりよくないと思っていたからだ。
マミはいつも笑顔で僕らと別れていたのに、その日の彼女は目に薄っすらと涙を浮かべていた。
駅の構内には人がいっぱいいた。
券売機の前には行列ができていたし、喫煙所の付近はたくさんの煙で曇っていた。
電光掲示板を見上げると、自分の乗る列車の改札が始まった事に気付いた。それを知った時、僕は心から安堵した。
「じゃあ、僕は帰るよ。マミちゃんも気をつけて家に帰ってね」
改札口の前でそう言うと、彼女はその時次の約束を口にした。
「私受験勉強があって忙しいんだけど、来月また会える?」
「うん」
僕は本当は早く改札をくぐってホームへ出たかった。
彼女と2人でいる事が、先輩を裏切っている事のように思えてならなかったからだ。
「じゃあ、来月の13日はどう? その日は日曜日だから、会えるよね?」
「分かった。先輩にもそう言っておくよ」
僕がそう言った時、彼女は表情を曇らせて目を伏せた。
そんな彼女の仕草を見ていると、胸が痛くてたまらなくなった。
彼女は俯いて一瞬唇を噛んだけど、すぐに顔を上げて何かを言いかけた。
「ねぇ、できれば2人きりで……」
「うん。この次は絶対先輩と2人で来るよ。じゃあね!」
もう2人でそこにいる事に耐えられなかった。
僕は真っ赤なコートを着た彼女に背を向け、急いで改札をくぐりぬけた。
冬が近いせいもあり、その頃はだいぶ日が短くなっていた。
僕は列車に乗り込んだ後、徐々に暗くなっていく窓の外の景色を見ながら様々な事を考え続けた。
マミが僕の事を好きになってしまうなんて、計算外だった。こんな事が先輩に知れたら、もう生きていけない。
僕がいつも先輩と一緒にマミに会いに行ったのは、彼らが2人きりで居るのを防ぐためだった。
そして僕がマミに優しくしたのは、優しい僕を先輩に見てほしかったからだ。
僕はずっと前から先輩だけを好きだった。先輩がマミを忘れて、僕だけを見てくれる事を望んでいた。
もしもマミの気持ちが他の人に傾いたとしたら、それは僕にとってプラスの出来事になるはずだった。
マミが僕の知らない誰かを好きになって先輩と別れてくれたら、いつでも悲しみにくれる先輩を慰める用意ができていた。
だけど彼女が僕を好きになってしまう事は絶対にマイナスだ。先輩がそれを知ったら、彼は僕の事を決してよくは思わないだろう。
マミが僕の事を好きになる。そんな事、僕は絶対に許さない。
列車を降りてバスへ乗り継ぐ間、ほんの少し外を歩くだけなのに凍えそうなほどの寒さに震えた。
そして体の震えは、バスに乗り込んだ後もしばらく続いた。
その頃もう窓の外は真っ暗だった。たった1人で暗闇を見つめていると、そのうちにすごく心細くなってきた。
先輩を置いて1人で出かけたりするんじゃなかった。彼が何を言おうと、ずっと先輩の側についているべきだった。
外に見える闇は、僕の心を映す鏡だった。僕の心は本当に真っ暗闇だった。
こんな事になるなら、欲を出すんじゃなかった。
以前の僕は、柳田先輩とどうにかなろうなんて思った事はなかった。ただ彼に後輩としてかわいがってもらえたら、それで満足だった。
こんなふうになったのは全部マミのせいだ。
彼女が先輩と付き合ったりしなければ、僕の心がこれほど揺れ動く事もなかった。
だいたい、心変わりするぐらいなら最初から先輩と付き合わなければいいんだ。
こうした思いが頭の中で膨らみ続け、僕はどんどんマミを許せなくなっていった。
やがて、じっと見つめていた窓ガラスに雨粒が叩きつけられた。それを見た時、僕は思わずため息をついた。
外はただでさえ寒いのに、雨が降り出すなんて最悪だ。
僕はもう外を見つめるのはやめた。それからコートの前を合わせて、しばらく仮眠を取る事にした。
寮の近くでバスを降りると、想像以上の寒気が僕の体を包み込んだ。
目の前の暗闇は、雨のカーテンで白く覆われていた。
僕は人気のない道を急ぎ足で歩いた。早く寮の部屋へ帰って、先輩の顔が見たかった。
しばらく降り続いた雨のせいで、道の上には所々に水たまりができていた。一歩前へ進むたびに足元がぬかるみ、ズボンの裾に水が跳ねた。
頭の上に冷たい雨が浴びせられ、髪の毛があっという間に濡れた。淡い外灯の光が濡れた路面を照らして、その光が僕の目に反射した。
僕はじっと俯いて雨の音を聞きながら歩いていた。
そしてしばらく歩いて行くと、水たまりを蹴ってこっちへ向かって来る誰かの足音が聞こえた。
その音に気付いて顔を上げた時、もう柳田先輩はすぐ目の前にいた。
彼は黒い傘で僕を雨から守り、ハンカチで濡れた髪を拭いてくれた。
「ごめん。もっと早く迎えに行こうと思ったんだけど、少し遅くなっちゃったな」
先輩が急いで寮を出てきた事はすぐに分かった。彼はコートも羽織らず、薄いトレーナー1枚の姿でそこに立っていた。
彼はとても元気そうに見えた。外の寒さに肩をすくめてはいたけど、そこにあるのはいつもの元気な先輩の姿だった。
僕らが道の端の方で立ち止まっていると、1台の車がその横を走り抜けていった。
車の黄色いライトが、先輩の優しい笑顔を僕の目に焼き付けた。
僕たちは1本の傘の下で寄りそいながら、寮へ続く道をゆっくりと歩いた。
その時僕には大きな違和感があった。それはいつもと違って、僕が先輩の右側を歩いていたせいだ。
「マミちゃんは、お前に会えて嬉しそうだった?」
水を蹴って走る車の音が遠のいた時、先輩が静かにそう言った。雨が傘をたたきつける音と彼の声が二重奏となって、僕の耳に小さく響いた。
僕はその一言で、彼の思いをすべて感じ取ってしまった。
「先輩の嘘つき」
「本当は体の調子なんか悪くなかったくせに、どうして僕を1人で行かせたりしたの?」
「こんな事をしたのは、全部マミのためなの?」
「先輩は……彼女が心変わりした事にいつから気付いていたの?」
小さな僕の声は、雨音に混じって消えていった。
僕の声が先輩の耳に届かなかったのは、この時が初めてだった。
先輩は僕の声を聞かず、僕の顔も見ず、ただ真っ直ぐ前だけを見つめて歩いていた。
その時僕の頬が濡れていたのは、決して雨のせいなんかじゃなかった。