2.
僕は柳田先輩とどうにかなろうなんて思った事はない。
僕の先輩に対する思いが、禁断の恋である事をちゃんと自覚していたからだ。
僕は先輩と話をしたり、先輩のベッドにこっそり横になるだけで十分満足していた。
その気持ちに嘘はないし、決してそれ以上を望んだ事はなかった。
でも7月に入って最初の日曜日、僕の自制心は大きく揺らぐ事になる。
その日曜日。先輩は朝早く出かけて行った。そんなわけで僕にとっては退屈な日曜日だった。
でも僕はその退屈が苦痛ではなかった。1日中先輩のベッドに寝転がって過ごす事ができるなんて、僕にとっては最高の幸せだった。
その日は廊下も窓の外もすごく静かだった。天気がよかったから、皆どこかへ出かけていたのだろう。
僕の居場所は先輩のベッドの上。僕は先輩の匂いがする白い枕を抱え、頭の中では先輩に抱きしめられる自分を想像し、体が反応するたびに声を殺してマスターベーションをした。
薄いカーテンを通して部屋の中へ降り注がれる、暖かい初夏の日差しの下で。
先輩が寮へ戻ってきた時、窓の外はもう真っ暗だった。
夜の8時すぎ。僕が学習机に向かって数学の問題集を広げていると、背後でバタンとドアの開く音がして、聞き慣れた足音が僕の方へと近づいてきた。
「お帰りなさい」
座ったままで振り向くと、先輩はもうすぐ側まで来ていて、僕に笑顔で白い紙袋を差し出した。
「お土産だよ」
「ありがとうございます!」
僕は嬉しくて、本当に嬉しくてすぐに袋の中身をたしかめた。
先輩のお土産は、有名な洋菓子店の生チョコレートだった。
「後で一緒に食べよう。俺、シャワーを浴びてくるからさ」
先輩は僕の頭をポンと1つ叩き、紺色のティーシャツに包まれた細い肩に白いバスタオルを引っ掛け、ジーンズのポケットの中から取り出した携帯電話を自分の机の上に放り投げた。
僕は先輩のその何気ない仕草にドキドキしていた。
ツヤのある真っ黒な髪。少し上気した頬。いつも眠そうな一重まぶた。そんな先輩のすべてが、いつも僕をドキドキさせた。
その後先輩は一度自分のベッドに目をやった。でもそこにはきちんとシーツが張られていたから、僕が1日中そこで過ごした事には気付かなかったと思う。
僕は先輩が部屋を出て行った後、チョコレートの四角い箱にキスをした。
先輩がその日何の用で出かけて行ったのかは知らなかったけど、お土産のチョコレートを買う時だけは僕の事を思い出してくれたはずだ。僕にはその事がとても嬉しかった。
もしかして僕には何かの予感があったのかもしれない。
その夜の先輩はいつもと少し違っていて、なんとなく顔が華やいでいた。
僕は先輩の顔を見て「外で何かいい事があったのかな」とぼんやり考えていた。
先輩はトイレやシャワー室へ行く時、いつも携帯電話を無造作に机の上へ置いていく。
いつもの僕なら決してそんな事は考えないのに、その時は先輩の携帯電話の履歴が見たくてしょうがなかった。
僕はその思いを抑え切れず、黒く光る携帯電話を手に持って開いた。
その時液晶画面に蛍光灯の光が反射して、一瞬目がくらんだ。
僕の手の中にすっぽり納まる携帯電話は、僕の知らない事実をたくさん知っていた。
先輩に何通ものメールを送ってきていたのは、マミという名前の女だった。
僕はついさっきマミから送られてきたばかりのメールを開いて、その短い文章を黙読した。
今日は楽しかったよ。どうもありがとう。
マミがオススメしたチョコレート、早く食べてね。
そのメールを読んだ時、携帯電話を持つ手が震えた。
先輩はその日、マミという女と会っていたんだ。
先輩の顔がなんとなく華やいで見えたのは、その女のせいなんだ。
お土産のチョコレートを買う時だって、その女が先輩の側にいたんだ。
僕は柳田先輩とどうにかなろうなんて思った事はなかった。
でも僕以外の誰かが先輩とどうにかなるなんて、絶対に許せなかった。