6.

 映画を見に行く当日。先輩はその日、出かける時間になってもまだマミの事を僕に話さなかった。
そして先輩は、マミにも僕が一緒に行く事を一切告げていなかった。
でも僕にとってそんな事はどうでもよかった。僕はただ、先輩と一緒に出かけられる事がとても嬉しかったんだ。
S学園は田舎の学校だから、映画館のある町へ行くまで長い移動時間が必要だった。
1時間バスに揺られて隣町へ行き、そこからまた1時間半も列車に揺られてやっと映画館のある町へ辿り着く。
そこまでの移動時間は約2時間半。つまり僕は往復5時間もの間先輩と2人きりで過ごす事になる。
僕はマミに会うのも楽しみだったけど、先輩と2人きりで過ごす時間がもっと楽しみだった。
もちろん寮の部屋ではいつも先輩と2人きりだったけど、一緒に外へ遊びに行くとなると、やっぱり気持ちが解放的になった。

 田舎道を走るバスは乗客が少なく、ほとんど僕たち2人の貸し切り状態だった。
僕と先輩は2人掛けの椅子に並んで座り、朝の日差しを浴びながら、バスの揺れに身をまかせてずっとお喋りを続けていた。
とにかく移動時間が長いから、僕らは朝8時に寮を飛び出していた。その日の空は真っ青だった。
「ねぇ先輩、映画を見た後はどうするんですか?」
「お前はどうしたい?」
「僕はずっと先輩の後をついて行きます」
「それ、答えになってないぞ」
先輩はそう言って微笑み、僕の頬を軽くつねった。するとその時、頬が急に熱くなった。
僕は先輩の前ではいつもかわいい後輩でいたいと思っていた。 本当の僕は人の携帯電話を勝手にいじるような奴だったけど、彼の前ではいい子でいたいと思っていた。
先輩は空色のティーシャツを着ていて、僕はその日空と同じ色の背中をずっとずっと追いかけて歩いた。
そして僕と先輩が触れ合ったのは、バスを降りて列車に乗り換える時の事だった。
夏休みのせいか、駅のホームには大勢の人たちがいた。
乗り換えの列車が来るホームへ立った時、先輩はたくさんの人たちの背中を見つめ、僕が迷子にならないようにそっと腕を引っ張ってくれたんだ。
先輩は僕の腕を引いてホームの端を長々と歩き続けた。その時は錆びたレールがそんな僕らを見守ってくれていた。
前を歩く先輩の黒髪が太陽に煌いて、その輝きが僕をドキドキさせていた。

 映画館のある町へ着いた時、先輩は僕を駅前のベンチに連れて行った。
「映画が始まるまでまだ時間があるから、少し休もう」
先輩がそう言って青いベンチに腰かけたので、僕もすぐ彼の隣に腰かけた。
午前11時が近づいて、外の気温はだいぶ高くなっていた。日の当たるベンチに腰かけると、お尻の下がすごく熱かった。
正面を見ると、そこには大きな花壇があった。そこに植えてある赤やピンクの花の色が、すごく眩しく僕の目に映った。 そして花壇の向こうには、都会的な景色が広がっていた。
そこへ辿り着いた頃、僕はすっかり満足してしまっていた。
先輩と2時間半もの間一緒にいただけで十分楽しくて、もうマミの事なんかすっかり忘れていた。
でも都会的な町へ出て来たのがすごく久しぶりで、その景色に興奮したのも事実だった。
S学園の周りには野山しかない。でもその日辿り着いた町には、僕を興奮させるのに十分な物がいっぱいあった。
背の高いビルや、道沿いに続く飲食店の列。大きな本屋に大きな駅。幅の広い道を走り抜けるたくさんの車たち。 そしてお喋りしながら歩くたくさんの人たち。
僕はその時、目に映るすべての景色にドキドキしていた。でも都会の景色以上に僕をドキドキさせるのは、やっぱり柳田先輩だった。
「疲れてないか?」
先輩は心配そうに僕を見つめながらそう言った。彼の眠そうな一重まぶたが、いつも僕をドキドキさせる。
「先輩は疲れてますか?」
僕が彼に同じ事を問いかけた時、もう彼の目は僕を見ていなかった。先輩の眠そうな目は、僕を通り越して別な物を見つめていたんだ。
僕はすぐに彼の視線を追いかけた。彼が見つめる方向へ目を向けると、その先に小さな光を見つけた。
真っ白な姿をして、小走りにこっちへ向かって来る小さな光。 駅前はたくさんの人たちでごった返していたのに、真っ白な洋服を着たその人だけが、やけに輝いて見えた。
僕はその人がマミである事にすぐ気が付いた。
僕は少しずつこっちへ近づく真っ白な光を、まばたきもせずに見つめていた。
彼女の影が近づくにつれて、胸に激しい痛みが襲い掛かってきた。