11.

 しばらく止まっていた田辺さんの手が、また背中をさすってくれるようになった時、彼は静かな声で少しずつ話をし始めた。
それは僕にとってつらい話になるかもしれないと思っていた。 でももう涙が枯れるほど泣き続けたから、今なら何を聞いても平気だと思っていた。
「俺と横山が同室だった事、知ってたのか?」
「はい」
田辺さんの言葉は途切れ途切れだった。
でも、夜は長い。僕は暗闇の中で、顔の見えない田辺さんの言葉をしっかり受け止める覚悟をした。
「横山はクソマジメなヤツでさ、あまり友達もいなくて、ほとんど外出もしなくて、いつも部屋にこもって勉強ばかりしてた。 俺はそんなあいつがすごく心配だったんだ」
横山さんという人は僕と少し似ていたのかもしれない。僕はその時、そう思った。
「俺は、いろいろと世話を焼いているうちにあいつを好きになった。横山も、俺を好きだと言ってくれたんだ。 でも……本当はそうじゃなかったんだよな」
「どうしてそう思うんですか?」
「俺、あいつを毎晩抱いた。俺たちは求め合ってると思ってた。だからあいつが女をレイプしたって聞いた時は……すごくショックだったよ」
それを言う時、田辺さんの声が震えていた。横山さんとの事は、田辺さんにとって悲しい思い出なんだ。
僕は自分が彼の傷を開いてしまったような気がして、心が乱れた。
「あいつ、退学になって寮を出て行く時、すごくすっきりした顔をしてたよ。きっと、もう俺と関わりたくなかったんだ。 あいつはもうここにいるのが嫌だったのさ」
「……」
「ここは不健康な所だぞ。こんな田舎に男ばかり集めて、1番性欲が旺盛な時期にそれを押さえつけられて。 まったく、ふざけるなよ。子供の頃から勉強ばかりさせられて、その挙げ句にこんな牢獄みたいな所へ閉じ込められて、やってらんねぇよ」

 その頃窓の外から月明かりが差し込み、眉間に皺を寄せる田辺さんの顔が薄っすらと見えるようになってきた。
でも彼が険しい顔をしたのは、ほんの一瞬だけだった。田辺さんは僕を見つめて微笑み、そっと僕の頬に手をやった。
その目はいつものつり上がった目ではなく、とても優しい目だった。 髪を下ろしている田辺さんはいつもと雰囲気が違っていて、より一層素敵に見えた。
「お前、派手に泣いてくれたな。でも時々ストレスを発散しないとここではやっていけないから、たまにはいいよな」
淡い月明かりの下で、田辺さんが再び微笑んだ。
頬の上に乗った大きな手に自分の手を重ねると、知らないうちにまた涙が出てきた。
すると、田辺さんの笑顔がすぐに涙で滲んだ。もう月明かりはなんの役にも立たなかった。
僕はさっきまでは自分のために泣いていた。でもこの時は、田辺さんのために泣いた。
それは彼が傷ついている事が分かったからだ。だから、田辺さんの代わりに僕が泣いてあげたんだ。
「困ったヤツだな……」
田辺さんはそう言いながら僕を抱きしめてくれた。
その時彼が抱きしめていたのは僕だったけど、田辺さんは本当は自分自身を抱きしめていた。 彼のために泣く僕はきっと彼そのもので、田辺さんはこの時、恋を失った時の自分を抱きしめていた。
彼は横山さんを失った時、やっぱりこうして泣いたんだろうか。その時、彼を抱きしめてくれる人は誰もいなかったんだろうか。
抱き寄せられて彼の心臓の音を聞くと、やっぱりその動きは早かった。
僕はこの時、ずっと1人で抱えてきた思いを打ち明けてすっきりしていた。
僕は少し成長したのかもしれない。少し前までの僕は、好きな人に思いを打ち明ける勇気なんかなかった。 そして、そうする勇気を僕に与えてくれたのは田辺さんだと思った。
田辺さんはTシャツの袖口で僕の涙を拭いてくれた。するとまた彼の優しい目がよく見えるようになった。
じっと彼の目を見つめると、すごく体が熱くなった。
ずっと彼と一緒にいたい。もう他の事なんか全部放り出して、いつまでも彼と抱き合っていたい。それが僕の、たった1つの望みだった。

 田辺さんの短い髪が頬に触れた。彼はその後耳元でこう囁いた。
「お前、どうして俺みたいなヤツを好きになっちゃったんだよ。俺、お前に随分冷たくしたのに」
「そんな事ありません。田辺さんはいつも優しかったです」
僕は彼のそばで息をしながら微かなミントの香りに酔いしれていた。その香りは、僕をすごくほっとさせた。
「あと少しで卒業だから、お前を好きにならないようにしてたのに」
「え?」
「だからいつも……わざと冷たくしたのに」
とても想像していなかった言葉が次々と囁かれ、そのうちに自分の心臓の音以外は何も聞こえなくなった。
「田辺さん……」
突然僕の言葉を遮り、田辺さんの唇が僕の口をふさいだ。
僕はその時、彼に何を言おうとしていたんだろう。