14.

 卒業式前日。その日はとても寒かった。
夕方。僕らはすっかり通い慣れた校舎へ続く道をゆっくりと歩いていた。 北海道の春はまだまだ遠く、道の上には白い雪がいっぱい残っていた。
その時ちょうど灰色の空から雪が降り出し、空からフワフワと落ちてくる綿菓子のようなものを2人して見上げた。
僕らは近道をして行儀悪く校舎を囲むフェンスを乗り越え、校庭をはしゃぎ回りながら薄っすらと積もった新しい雪を両手でかき集めた。
僕らはその時、なんでもいいからはしゃぎたかったんだ。黙っていると、どうしても悲しくなってしまうから。
田辺さんは小さな雪玉を作って、それを僕の背中に入れた。
「冷たい」 と叫んで肩をすぼめる僕を、彼の優しい目がじっと見つめていた。
湿った両手を制服のズボンにこすり付けながら僕を見つめる彼の優しい目と、風に揺れていた長い前髪と、 この時背中を滑り落ちていった冷たい雪の感触。僕はそれを、ずっと忘れないようにしようと思った。
雪が止んだ後も僕らはしばらく校庭をウロウロしていて、そのうちに体が冷え切ってしまった。
彼はたった一度だけクシャミをした僕を心配し、僕の手を引いて土足のままズカズカと校舎の中へ入っていった。
もうその時間校舎の中は静まり返っていて、次々と見えてくる教室の中を覗いても人はどこにも見当たらなかった。
僕の前を行く彼の手は、とても冷たかった。

 さっきまで雪を降らせていた灰色の空は少しだけ青く変わっていて、長く白い廊下には薄っすらと太陽の光が差し込んでいた。 そして田辺さんの髪も白く光っていた。
「ここが暖かそうだな」
彼は廊下の突き当たりまで進むと、太陽がいっぱい差し込む大きな窓の前で足を止めた。
その後彼は壁に寄り掛かって冷たい廊下に座り、もちろん僕もその隣に足を伸ばして腰かけた。
僕らはその時、制服の上にお揃いのハーフコートを着ていた。紺色の、薄めの生地のハーフコートだ。
「寒くない?」
「うん」
僕は寒くないと言ったのに、彼は自分の白いマフラーを外して首に巻いてくれた。それから僕とお揃いのコートを脱いで、膝の上に掛けてくれた。
「田辺さん、風邪ひいちゃうよ」
僕は彼にそう言って、膝の上に置かれたコートを返そうとした。でも田辺さんはそれを頑なに拒み、結局コートは僕の膝の上に収まった。
「手が冷たいな。温めてやるよ」
彼は自分だって手が冷たいのに、その冷たい手で僕の両手を擦り、必死に温めてくれようとしていた。
静かな廊下に僕らの手の擦れ合う音が小さく響く。長く伸びた彼の前髪が、その手の動きに合わせて微かに揺れる。
僕はその時、気を抜くとすぐに目から涙が零れ落ちてしまいそうだった。

 「もっとこっちへ来いよ」
それから5分後。僕は田辺さんに肩を抱かれ、静かな廊下で彼とぴったりくっついた。
彼が温めてくれた手は、もうちっとも冷たくなんかなかった。
左の肩に乗せられた彼の手はまだまだ冷たそうだったけど、きっとそのうち僕の体温で温かさを取り戻すに違いなかった。
コートもマフラーも放棄した彼があまりにも寒そうだったので、僕はひざ掛けにしていたコートを持ち上げて彼の肩に掛けてあげた。 すると彼はもう僕の好意を無にする事はなく、素直にコートに包まった。
「あのさぁ……」
「なぁに?」
彼が何か言いかけた時、廊下の上に伸ばした自分の足と田辺さんの足を見比べていた。
田辺さんは僕より20センチも背が高い。当然だけど彼の足は僕よりずっと長く、靴のサイズもだいぶ大きいようだった。
「キスしよっか」
彼にそう言われ、急にドキドキしてしまった。
彼とは何度もキスを重ねてきたけど、寮の部屋以外でキスをする機会なんか今まで一度もなかった。
「ひ……人が来るよ」
心の準備をする時間が欲しくて、彼の顔も見ずにそんなつまらない事を口にした。
廊下は本当に静まり返っていて、人が来る気配なんかまったく感じられなかった。 それでも田辺さんは左右を確認し、僕もそれに習って静かな廊下をチラッと見渡した。
案の定廊下には誰もいなくて、そこに存在していたのは僕ら2人と窓の外から入り込む太陽の光だけだった。

 「じゃあ、こうしよう」
田辺さんは肩に掛けていたハーフコートを僕の頭にかぶせ、自分もその下へ潜り込んだ。
太陽の光が遮られたコートの下はほんのり暗く、そこは僕たちだけの世界だった。
彼は冷たい両手で僕の頬を引き寄せ、ちょっと遠慮がちに僕の唇を奪った。田辺さんの唇は、彼の手と同じようにひどく冷たかった。
僕らはその後、2人だけの世界でじっと見つめ合った。僕は彼が瞬きをするたびに揺れ動くまつ毛を見つめ、頬を包む冷たい手に自分の手を重ねて彼の手を温めようとしていた。
「温かい……」
彼は僕の手の温もりを感じ取り、そう言ってにっこり微笑んだ。
その笑顔があまりにも素敵だったから、僕はまた悲しくなった。彼を好きになればなるほど、一緒にいる時間が長くなればなるほど、不安はつのるばかりだった。
「どうした?」
田辺さんはすぐに僕の表情を読み取り、小さな声でそう言った。
僕は頬を包む彼の手をしっかりと握り締め、涙を堪えていた。
僕らの恋は誰にも言えない密かなものだったから、2人が抱き合っていられる場所は寮の狭い部屋の中だけだった。
僕たち2人は校舎の中では一度も口を利いた事がなかったし、もちろん触れ合う事もできなかった。 僕は一度でいいから校舎の中を2人きりで歩いてみたかった。 だから夕方になってから、「一緒に校舎へ行きたい」と彼にわがままを言った。
そして田辺さんは、僕の最後のわがままを聞いてくれた。僕らは放課後寮を飛び出して、2人だけで白い校舎へやってきたのだった。

 「ねぇ……卒業しても、ずっと仲良くしてくれる?」
僕はコートの下で、1番聞きたかった事を彼に尋ねた。
卒業式は明日。田辺さんはその翌日に寮を出てしまう。そして僕らは離れ離れになってしまう。
僕は彼と離れてからの事が不安でたまらなかった。悲しい時や泣きたくなった時、田辺さんを失った僕はいったいどうすればいいんだろう。
「そんな当たり前の事聞くなよ」
僕は彼の唇がそう言って動くのをじっと見つめていた。
油断するとすぐに目の奥から熱いものが込み上げてきて、彼の唇が滲んでしまう。でも僕は、必死に泣くのを我慢した。
それは、今のうちから泣かない訓練をしておかなければならないと思ったからだ。 だって田辺さんが卒業したら、僕の涙を乾かしてくれる人はいなくなってしまうんだから。
「信二、お前が好きだよ」
彼は僕の顔をじっと見つめ、真剣な目をしてそう言った。
田辺さんは意地悪だ。ずっと我慢していたのに、僕はこれを言われると必ず泣いてしまう。

 僕の頬を包む田辺さんの手はその時もう涙で濡れていた。
彼はその手で僕を抱き寄せ、頭からずり落ちたコートで僕の背中を温めながらその広い胸で泣かせてくれた。
「日が沈むよ」
涙を止められない僕の耳に、彼がそう囁いた。
僕は彼と一緒に窓の外に目をやり、消えかかる太陽の光をじっと見つめていた。でも、弱々しい太陽の光は涙のせいでぼやけて見えた。
「なぁ、寮へ帰ったら本を読んでくれよ」
「……はい」
「俺、お前の声が好きなんだ。でもそのうちお前も声変わりしちゃうんだろうなぁ……」
田辺さんは消えかかる太陽を見つめながら、やけにしみじみとそうつぶやいた。
「そろそろ行くか」
日が沈むと、彼はそう言って僕の唇にもう一度キスをした。短いキスが済んで僕が彼に身を預けると、今度は僕を抱きしめながらこう言った。
「できるだけ遠回りして帰ろう」
その日はとても寒かった。僕らは肩を寄せ合い、できるだけ遠回りして帰った。