16.

 別れの朝。僕はこの時ほど朝日を憎んだ事はなかった。
昨夜は彼と愛し合いながら二度と朝がやって来ない事を祈り続けた。だけど、どんな時でも朝は訪れた。
もう僕らに残された時間は本当にわずかだった。田辺さんは朝10時のバスに乗ってこの街を出て行く事になっていた。
僕らは朝食も取らず、ギリギリまで2人きりで過ごした。S学園男子寮、505号室のこの部屋で。

 田辺さんは以前よくそうしていたように冷たい床の上に座り、隣にいる僕をずっとずっと抱きしめてくれていた。
その時僕の頭にあったのは、たくさんの後悔だった。
もっともっと優しくしてあげればよかった。
もっともっと愛してあげればよかった。
甘えてばかりいるのではなく、時には彼にも甘えさせてあげればよかった。
もっといっぱい話をすればよかった。
もっと何度も好きだと言ってあげればよかった。
もっと何度もキスをすればよかった。
彼はその時、白いセーターにジーンズという服装をしていた。 朝になって彼がその洋服を着た時、やっぱりもう制服は着ないんだと思って胸が苦しくなった。
窓の外から入り込む朝日は、いつもながらに眩しかった。
その白い光は僕と彼を照らし、思い出の詰まったこの部屋全体を照らしていた。
窓際に2つ並んだ木の机。その片方はすっかり片付けられてしまい、そこには鉛筆1本さえ残っていなかった。
ピンとシーツが張られた2台のベッドはいつも通りだったけど、僕は今夜から1人きりで眠らなければならない。
この部屋には思い出がいっぱいで、田辺さんの香りが充満していた。 でもいつか、彼の残り香はこの部屋から完全に消え去ってしまうんだ。

 「信二、夏休みになったら会いに来て。俺これからずっと東京で1人暮らしだから、休みの間はずっと2人きりでいられるよ」
田辺さんは僕の真っ赤な目を見つめ、笑顔を絶やさずにそう言った。
僕の目が赤いのは泣いたからではなく、寝不足のせいだった。
僕は昨夜、彼の前で一度も泣かなかった。それは、泣いたり悲しんだりしている時間がもったいなかったからだ。 そんな事より、彼と少しでも長く触れ合っていたかった。
その時、田辺さんの温かい頬はすぐ手の届く所にあった。
僕は真っ赤な目で彼を見つめながら指先で彼の頬に触れ、尖った鼻に触れた。
田辺さんの優しい目は、朝日が当たって光っていた。濡れた唇も、同じように光っていた。 そして数ヶ月間伸ばし続けた長い前髪は、朝日に透けていた。
田辺さんの目には、不安げな僕だけが映し出されていた。そしてごっつい両手は、僕だけを抱きしめてくれていた。
僕はその時、彼から決して目を離すまいと思っていた。 別れの朝に彼がどんな表情をしたか、どんな仕草をしたか、それをすべて自分の脳裏に焼き付けようとしていた。
その時僕は、少しだけ気持ちが落ち着いていた。でも彼がふと腕時計を見つめた時、心が突然乱れた。
彼の目にはさっきまで僕だけが映し出されていたのに、その同じ目が今は時計の針を見つめていた。 僕はその事があまりにも悔しくて、目の奥から熱いものが込み上げてきた。
僕は彼の温かい胸に強くしがみ付いた。すると僕を抱きしめる大きな手の感触と、腕時計の冷たい感触が同時に背中に伝わってきた。
「信二……俺、そろそろ行かなくちゃ」
その時僕は、両手で耳を塞ぎたかった。それは1番聞きたくない言葉だったからだ。
だけど僕の両手は耳を塞ぐのではなく、しっかりと田辺さんの背中に回していた。 そうしていないと、彼が離れて行ってしまうと思ったからだ。
「信二、俺本当に行かなくちゃ」
「嫌だ。どこにも行かないで。ずっと僕のそばにいて」
今の今まで乾いていた僕の目にとうとう涙が溢れた。僕は最後まで彼を困らせてばかりいた。

 「こっち向けよ」
僕は田辺さんの両手で強引に頬を包まれ、泣きながら彼の顔を見上げた。その時、田辺さんの目はつり上がっていた。
その時の田辺さんは、決して優しくはなかった。でもきっと、優しくしない事が彼の優しさだった。
「お前、本当は俺の事なんか好きじゃないんだろう?」
「そんな事ないよ!」
僕は多分、かなりヒステリックにそう叫んだ。
その時の僕は、息をするだけで精一杯だった。もうとても自分を保ってなんかいられなかった。 ただ少しでも彼に触れていたくて、頬の上に乗った彼の手に自分の手を重ねていた。
田辺さんはその時、僕をわざと突き放そうとしていた。でも僕はその優しさにますます涙が溢れた。
「俺はお前と離れてもずっとお前を好きでいる自信がある。でも、お前はそうじゃないんだろう?」
「違うもん!」
言い返したい事はいっぱいあるのに、うまく言葉にならなかった。
その時の僕は、田辺さん以外に考えられなかった。自分が彼を好きじゃなくなるなんて、そんな事は絶対に考えられなかった。
「だったら、笑顔で俺を送り出してくれよ。お互いを思う強い気持ちがあれば、俺たちはどこにいても一緒だろう?」
そんなのは気休めだ。彼を笑顔で見送るなんて、とても無理だ。
だって、僕はもう泣き出してしまった。僕は一度泣き出すともう涙を止められなくなってしまう。
僕の涙を止めるのは、いつだって田辺さんの役目だった。その彼が僕を泣かせているんだから、もうどうしようもなかった。
「まぁいいか。俺、お前の泣き顔も好きだから」
田辺さんは急にトーンダウンしてそう言った。きっと彼には、僕の心の声が聞こえたんだ。
その後彼は、部屋の中をグルッと見回した。
綺麗に片付いている机。何度も愛し合ったベッド。そして、いつも彼が座っていた冷たい床。
田辺さんはその時、きっとこの部屋にサヨナラしていたんだ。
それから彼は立ち上がり、最初の夜と同じように僕を抱き上げてくれた。それでも僕はもう恥ずかしいとは思わなかった。
「お前、重くなったな」
僕は彼の肩にしがみ付き、笑顔でそう言う田辺さんの顔をじっと見つめていた。 彼の顔は少し滲んで見えたけど、その目が優しかった事はちゃんと脳裏に刻まれた。
そして僕らはお別れのキスを交わした。それは唇と唇を重ねただけのシンプルなキスだった。
朝日に照らされた彼の明るい笑顔を、僕はきっといつまでも忘れない。

 やがて田辺さんが僕を床の上に下ろし、とうとう別れの時がやって来た。
彼は紺色のハーフコートを羽織り、小さなボストンバッグを持ってドアへ向かった。
僕はもちろん彼の後を追いかけた。僕は絶対バス停まで彼を見送りに行くつもりでいた。
だけど田辺さんはドアの前で振り返り、僕に言い聞かせるようにこう言った。
「信二、もうここでいいよ。俺はここから1人で行く。お前は窓から俺を見送ってくれ」
「嫌だ」
僕は少し動揺しながら首を振った。 でもその後彼が口にした言葉は、僕を押し止めるのに十分なものだった。
「俺、これ以上一緒にいたら泣くかもしれない。お前には泣き顔を見せたくないんだよ」
それを言う時、田辺さんの目が少しだけ光っていた。それを知った時、僕は言葉を失った。
「じゃあな。必ず手紙を書くよ」
それは、あまりにもあっけない別れだった。
田辺さんはそれだけ言い残すと、すぐにドアを開けて廊下へ出て行ってしまった。
僕はもう彼を追いかける事ができなかった。 必死に涙を堪え、かっこいいままの自分でサヨナラしようとしている彼を、追いかける事なんかどうしてもできなかった。
彼の足音がどんどん小さくなって僕から離れていく。
僕はすぐに部屋の奥へと走り、窓を全開にして外の冷たい風を浴びた。
朝日は眩しかった。外にはまだ雪が見えた。
窓から精一杯顔を出して右下の玄関を見つめると、やがてそこに田辺さんの姿が現れた。
いつも追い求めた大きな背中が、少しずつ少しずつ小さくなっていく。
僕はやっぱり彼を笑顔で見送る事ができなかった。彼の背中は、すぐに涙で滲んだ。
「田辺さーん!」
僕が大きな声で彼を呼ぶと、田辺さんは振り向かずにサッと右手を上げて僕に合図を送った。
僕は彼の背中が見えなくなるまで、たった1人で田辺さんを見送った。
彼とは、それが最後だった。


 僕は彼が去った後の2週間、いつも泣いてばかりいた。
でも4月になって新入生が505号室へ入室してきた頃、もう泣いたりする事はなくなっていた。
田辺さんは約束通りに、ちゃんと手紙をくれた。僕らは離れ離れになった後、3ヶ月ぐらいは手紙のやり取りを続けていた。 でも北海道に短い夏が訪れた頃、僕らの絆は途絶えた。
僕は彼と離れた後も、それなりに楽しくやっていた。
決して田辺さんの事を忘れたわけじゃなかったけど、同室の後輩はかわいかったし、仲のいい友達も周りにたくさんいて、すぐに彼のいない暮らしに慣れてしまった。
田辺さんはもしかして、初めからこうなる事が分かっていたのかもしれない。 彼はそれを承知で僕を愛してくれたのかもしれない。
僕は、彼にすごく感謝していた。
田辺さんはなかなかここに馴染めない僕を気遣い、友達と仲良くなるきっかけ作りをしてくれた。
彼は自分がいなくなっても僕がここでしっかりやっていけるように、足場を作って去っていった。
僕は田辺さんが去った後も、ずっと彼の言い付けを守り続けていた。 友達を大切にして、皆と仲良くして、友達が困っている時にはちゃんと助けてあげられるような人間にもなれた。 そしてそれはすべて田辺さんのおかげだと思っていた。
ここへ来て2度目の秋が訪れた頃、僕は遂に変声期をむかえた。
少し長めだった制服のズボンも、いつの間にかちょうどいい長さになった。
僕はもう田辺さんが好きだと言ってくれた昔の自分の声を思い出す事ができない。
S学園で過ごす日々はまだまだ長い。
僕はこれからどんどん成長し、どんどんいろんな事を身に着け、どんどん大事な事を忘れていくに違いない。
そしてきっと、あれほど好きだった彼との思い出も、徐々に薄らいでいくのだろう。

終わり

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