2.

 僕はその次の日も田辺さんの前で朗読させられた。それはもちろん、官能小説の続きだった。
消灯1時間前。その時はもう僕も田辺さんもパジャマに着替えていた。
僕は最初自分のベッドの上に足を伸ばして座り、膝の上に置いた枕に昨日とは違う本を乗せて冒険小説を黙読していた。
田辺さんはその時、机に向かって自分専用の大きな鏡と見つめ合い、夢中で髪を整えていた。
田辺さんの髪は、いつも綺麗にセットされている。彼はお風呂に入って髪を洗った後、いつも30分ぐらいかけて髪を整える。 ブラシとドライヤーとスプレーをたっぷり使って。
田辺さんはあまり勉強熱心な人ではなかった。彼が机に向かうのは、髪をセットする時ぐらいのものだった。
僕は髪を立たせるのはすごく大変なんだなぁと妙に感心しながら、本を読むのも忘れ、知らず知らずのうちに器用にブラシを操る彼の背中を見つめていた。
「何見てるんだ、お前」
しばらくすると、田辺さんのドスのきいた声が飛んできた。彼は僕に背を向け、鏡を見つめたまま僕を一喝した。
僕は慌てて目線を落とし、再び本を黙読し始めた。

 しばらくすると、髪のセットを終えた田辺さんが昨日と同じように派手なアクションで僕のベッドに飛び乗った。そして、僕が読んでいる本を横から覗き込んだ。
「つまんない本を読むなよ」
田辺さんは本当につまらなさそうにそう言って、僕の手から革表紙の本を取り上げた。
「昨日の続きを読んで聞かせろよ」
「でも……」
僕はまた口ごもってしまった。
突然昨日の出来事が頭に浮かんだ。 とても恥ずかしくなるような文章を読まされ、体が反応し、田辺さんの指で感じてしまった事を思い出したんだ。
僕はもう田辺さんの前であのような小説を朗読するのは嫌だった。 だって恥ずかしいし、そうする事によって反応した僕自身に、また彼の手が触れる事を期待してしまいそうだったから。
「あの本、田辺さんに貸します。2週間後に図書館へ返せばいいと思いますから……」
「俺はお前に読んでもらいたいんだよ。読書は苦手なんだ」
田辺さんは不機嫌そうにそう言った。僕には屈強な田辺さんに歯向かう勇気はなかった。

 田辺さんはいつものように冷たい床の上に座り、僕のベッドを背もたれの変わりにして、僕が朗読するのを聞いていた。
僕はその名の通り官能的な小説を、30分以上も読まされた。すると股間にある小さな物は、やっぱりすぐに膨れ上がった。
「もうすぐ消灯だ。続きはまた今度な」
田辺さんがそう言って立ち上がった時は心の底からほっとした。
彼は官能小説ぐらいで興奮しないようだけど、僕の方は興奮しっぱなしだった。 体の一部が膨らみすぎて弾けそうになっているのに、平気な顔をして淡々と朗読を続けるのはそろそろ限界だった。
「布団に入れ。電気消すぞ」
田辺さんはそう言って部屋の照明を落とし、自分のベッドに飛び乗った。
その日は月明かりがとても強かった。 いつもは照明を落とすと部屋の中が真っ暗になるのに、その夜は2メートル先にあるベッドの上に田辺さんの影が確認できるほど明るかった。
彼はその夜光沢のあるパジャマを着ていて、その袖口に月明かりが反射して光っているのもちらっと見えた。
「お前、官能小説だと知っててその本を借りてきたのか?」
照明を落としてから1分後。僕は仰向けになって眠る体勢に入っていた。でも薄闇の中にドスのきいた声が響くと、返事をしないわけにはいかなかった。
「いいえ。知りませんでした」
「だろうな」
「……こんな本、どうして学校の図書館に置いてあるんですか?」
それは素朴な疑問だった。僕が間違って借りたあの本は、学校の図書館に置くには相応しくないと思われた。
「オナニー用さ」
僕はそれを聞いて小さく溜息をついた。
田辺さんが僕の話にまともに受け応えをしてくれるわけなんかない。聞いて損した。
でも、その後田辺さんは意外な事を話してくれた。それは本当に意外で、びっくりするような話だった。
「これはお前が入学する2年前の話だけど、当時中等部の3年だった奴が隣町で女を捕まえてレイプしたんだよ」
「え?」
「そいつはすぐ退学になったし、被害者には学長が相当な金を払って示談にしたっていう話だ。 官能小説が図書館に置かれるようになったのはそれから後の事さ。 エロ小説を読んで、性欲は自分で処理しろっていう事なんだろうな」
その後、田辺さんも布団に潜って眠る体制に入ったのが分かった。もうパジャマの袖口の光は、肉眼で確認できなくなった。
その夜は何故か僕も田辺さんも2台のベッドを仕切るカーテンを引かなかった。 僕はその事に気付いていたけど、立ち上がってカーテンを引こうとは考えなかった。
「だからお前も、ちゃんとオナニーしてから寝ろ。見ないフリしててやるから」
『おやすみ』の代わりにそう言って、田辺さんの話は終わった。

 僕はすごくドキドキしていた。
薄闇の中で田辺さんが話してくれた事は、僕にとってあまりにも刺激が強すぎた。
僕が入学する前に、そんな事があったなんて。この超エリート校 S学園で。

 僕は誰かに強い力で押さえつけられていた。
両腕を冷たい床の上に押し付けられ、全然身動きができない。
『何するの? 誰か助けて』
そう叫びたいのに、怖くて声を出す事すらできない。体はどうしようもなく震えている。
僕を押さえつけていた誰かが体の上に重くのしかかる。どんなに抵抗しても、足をバタつかせる事だけで精一杯だ。
やがて誰かの手が僕の制服のズボンを脱がせようとした。 その人は器用に片手で僕のベルトを外そうとしている。 僕の耳にはベルトのバックルが鳴るガチャガチャという音が飛び込んでくる。
『嫌だ。やめて』
僕は本気でそう思っていて、本気でそう叫びたかった。なのに、その思いと裏腹に股間にある物は膨れ上がっていた。
ちっとも身動きができないままにベルトを外され、ズボンを下ろされ、パンツも下ろされた。 僕を押さえつけている誰かの手が、十分に反応している僕の大事な物にそっと触れた。
そのごっつい手の感触。5本の指の感触。僕はこの手の温もりを知っている。
僕を押さえつけている誰かが、鼻で笑った。僕の耳の、すぐ近くで。
『お前も男の子なんだな』
その声は、僕がよく知っているドスのきいた声だった。
『た……田辺さん!?』
声にならない自分の声が僕の頭全体に響いた。
僕の知っているこの手の感触。僕の体が覚えているこの指の感触。 その懐かしい指が僕の先端にほんの少し触れた時、突然体がフワッと浮き上がり、僕は天国へいった。

 体がビクッとして目が覚めた時、目の前は真っ暗だった。
体が熱い。僕の体は汗だくで、前髪が額に貼り付き、パジャマも体に貼り付いていた。そして汗とは違う体液のせいで、パンツが股間に貼り付いていた。
少しずつ頭の中が冷静になっていくと、自分の置かれている現状が理解できるようになった。
真っ暗な部屋の中には、田辺さんの豪快ないびきが響き渡っていた。
ドスのきいた彼のいびきと共に、自分に襲い掛かる罪悪感。
あぁ……やっちゃった。今のは夢だったんだ。

 僕はそれからしばらく身動きができず、ベッドの上でうなだれていた。
田辺さんのいびきは止みそうにない。
いい気なもんだ。僕にこんな思いをさせて、自分はガーガーいびきをかいて眠っているなんて。
僕が今夜、田辺さんの夢を見て夢精した事。それは彼には永遠に秘密だ。