4.

 「そろそろ終わりにするか。消灯時間だしな」
木曜日の夜。僕は明日の本番に備えてずっと作文を読む練習をしていた。
田辺さんはパジャマに着替えた後、相変わらず冷たい床の上に腰掛けて、僕が読む作文にずっとずっと耳を傾けてくれていた。
「いよいよ明日は本番だな。楽しみにしてるよ」
田辺さんはそう言って軽く微笑み、いつものように部屋の照明を落として自分のベッドへ飛び乗った。
でも僕は明日の事を考えるとなんだか不安で、部屋の中が暗くなった後もしばらくベッドの上に腰掛けたまま作文用紙を握り締めていた。
田辺さんは布団に潜った後しばらく黙っていたけど、一向に動こうとしない僕の気配に気付き、いつものドスのきいた声で僕に声を掛けた。
「どうした? 早く寝ないと、声の調子が悪くなっちまうぞ」
「……はい」
僕らは最近、ずっとベッドを仕切るカーテンを引かずに朝を迎えていた。
その夜は窓の外から入り込む月明かりもなく、ただ真っ暗な空間に僕らの声が響いていた。
「緊張してるのか?」
「はい」
その後、田辺さんが小さく笑うのが分かった。
僕はその時、いつも堂々としている田辺さんには気弱な僕の心なんか理解できないだろうと思っていた。
「お前、偉かったよ」
「……え?」
「緊張するのが分かってるのに、作文読むのを引き受けただろう? これは大きな進歩だぞ」
田辺さんの言葉に、すごくドキドキしていた。
僕は本当は、高山先生の申し出を断わる事ができた。でも先生に呼ばれて作文を読まないかと言われた時、まず最初に頭に浮かんだのが田辺さんの顔だった。
僕がお昼の放送で作文を読む事が分かれば、田辺さんはきっと喜んでくれる。その時とっさにそう思い、つい先生の申し出を受けてしまったのだった。
僕が少し進歩したというのなら、それは絶対に田辺さんのおかげだった。
「さぁ、早く寝ろ」
その声の後、すぐ暗闇の中に田辺さんのいびきがガーガーと響き渡った。
でもそれは、僕にとって子守唄に代わりつつあった。
僕はその頃、田辺さんのいびきを聞くと安心して眠れるようになっていた。


 翌朝目が覚めると、すぐに緊張でお腹が痛くなった。僕は食欲がなく、朝食も放棄してしまった。
朝日が差し込む部屋の中。田辺さんと並んで制服に着替えていると、僕は今までで1番の不安を感じた。
机の前で俯きながら、できるだけゆっくりとズボンをはき、できるだけゆっくりとワイシャツを着た。
部屋を出て田辺さんと離れたら、この緊張を1人で抱えていかなければならないからだ。
田辺さんは制服を着終わると、鏡に向かって髪を整え始めた。 彼が器用にブラシを操ると、日が当たって白く光る髪がものの見事に立ち上がっていった。
「早く着替えろ。授業に遅れちまうぞ」
田辺さんは鏡を見つめたままそう言って僕をどやした。
少し前まで、寮の部屋は僕にとってとても落ち着かない場所だった。 僕とは全然違う田辺さんと2人きりの空間では、どうしてもリラックスする事ができなかった。
それなのに、今日はこの部屋を出て行くのが死ぬほど怖い。
「何グズグズしてるんだ。もう行くぞ」
田辺さんは僕のクローゼットの中を覗き、ハンガーに吊るされているブレザーを手にとって僕に着せてくれた。
すると本当にこの部屋を出て行く時が近づき、僕の心臓はドックン、ドックン、と大きな音をたてていた。
「大丈夫だよ。お前はいつも通りやればいいんだ。分かったな?」
僕を見つめてそう言う田辺さんの声は、今までで1番優しかった。
田辺さんは一見ちょっと怖そうだけど、間近で見ると目がとても綺麗だった。

 それはあまりにも突然だった。
僕の緊張を感じ取った田辺さんが、両手で強く抱きしめてくれた。
僕は少し驚いたけど、体の力を抜いて彼に身を任せていた。
18歳の田辺さんは体が大きくて、腕もがっしりしていて、彼の胸はとても広かった。
田辺さんは、微かにミントの香りがした。
「少しは落ち着いたか?」
「……はい」
田辺さんにそう言われ、僕は思わずウソをついてしまった。
僕は彼に抱きしめられて、本当は今まで以上にドキドキしていた。