5.
僕はその日のお昼、初めて学校の放送室を訪れた。そこは、よくドラマで見るラジオ局に似ていた。
重いドアを押して中へ入ると、音響を担当する先輩が機械をいじり、ガラス張りの小部屋の中で2〜3人の生徒たちが忙しく動き回っていた。
僕が行くと機械をいじっていた先輩が振り返り、「今日作文を読む子だね?」と聞いてきた。
先輩は恐らく高等部の生徒で、しかも高学年だと思われた。
先輩の笑顔がとても優しそうで、少し安心した。その人は田辺さんとは正反対に、穏やかな声で話す人だった。
「ここに座って。放送が始まったら最初は音楽を流すからね。その後僕が合図したらすぐに作文を読み始めて」
僕はガラス張りの小部屋へ案内され、冷たい椅子に腰かけて先輩の説明を受けた。目の前には四角いマイクがあって、ここで話すと校舎全体に僕の声が響くという事が分かった。
先輩は、僕が緊張している事に気づいていた。僕の手はすでに汗ばんでいて、握り締めた作文用紙が若干湿っていた。
「緊張しなくていいんだよ」
先輩は後ろから僕の背中を軽く叩いて、優しい声でそう言ってくれた。
先輩がガラス張りの小部屋を出ると、遂にお昼の放送が始まり、まずはゆったりとしたクラシック音楽が流れた。
僕はとても不安で、ガラスの向こうの先輩に目で助けを求めた。その時先輩は白い歯を見せてにっこり微笑み、僕に手を振っていた。
僕はクラシック音楽を聞きながら、作文を読む練習をした時の事を思い出していた。
田辺さんは、もうきっと僕の作文を暗記してしまっただろう。毎日同じ作文を聞かされて、きっと飽き飽きしていたはずだ。
それでも一切嫌な顔を見せず、いつも僕の練習に付き合ってくれた。
冷たい床の上に座って僕の声を聞く田辺さんの姿を思い浮かべると、急に気持ちが落ち着いた。
あれほど何度も練習したんだから、うまくいかないはずはない。
こんなふうに思う事ができたのは、間違いなく田辺さんのおかげだった。
やがて耳に聞こえるクラシック音楽がだんだんと小さくなっていき、ガラスの向こうにいる先輩が僕の目を見て頷いた。
僕はいつものように、田辺さんに語りかけるように作文を読み始めた。
もうガラスの向こうにいる先輩の事も忘れ、あちこちに置かれてある機材に目も向けず、ただ手に持った作文用紙を見つめてそれを読む事だけに集中した。
■ S学園へ入学するまでの事 中等部 1年C組 沢村信二 ■
僕はずっと、S学園へ入学するために生きてきました。
小さい頃から父や母にS学園はすごくいい学校だと教えられ、この学校へ入学できるようにがんばって勉強しなさいと言われて育ちました。
でも、僕自身はS学園の何がどのようにいいのか全然分からずに勉強し続けてきました。
ただ父や母がいい学校だと言うから、なんとなくそうなのかと思っている程度でした。
そしてS学園の試験に受かった時、父と母はとても喜んでくれました。
僕がこの学校へ入学する事は父と母の希望であり、その希望が叶ったのだから、両親が喜ぶのは当然でした。
だけど僕は、本当は地元の中学校へ通いたいと思っていました。小学校の時から仲良くしている友達とずっと一緒にいたかったからです。
でもその気持ちを両親に話すと、すごく怒られました。今までなんのためにがんばって勉強してきたのか分かっているのかと、父に何度も言われました。
自分は、いったいなんのためにずっと勉強に励んできたのか。
僕が自分自身にそう問いかけたのは、その時が初めてでした。でも自分の中でその答えは出ませんでした。
僕には自分がこうありたいと思う理想もなく、夢もなく、希望も特にありませんでした。
結局僕は父や母に何も言い返す事ができず、逆らう事もできず、両親の希望通りにこの学校へ入学しました。
入学式には両親揃って来てくれました。父は入学式の間、緊張している僕の顔をずっとカメラで撮り続けていました。
途中で父と目が合うと、父は僕に笑顔を要求しました。だから僕は、無理矢理笑って見せました。すると父は満足そうな顔を僕に向け、右手でオーケーのサインを出しました。
入学式が終わると両親は寮の僕の部屋へやって来て、あれこれと世話を焼いてくれました。
母は東京の実家から送った洋服をクローゼットにしまい入れ、父は部屋の中をカメラで撮影していました。
そして最後に、父が僕にカメラを向けてこう言いました。
「今の気持ちをカメラに向かって言ってごらん」
僕は、それまで何度も自分の気持ちを父に伝えていました。
それは地元の中学校へ通いたいという事や、家を離れたくないという事でした。
でも父はいつも僕の気持ちを受け入れてはくれませんでした。両親は、いつでも自分たちの希望を優先しました。
僕がS学園へ入学する事を承諾した時、きっと両親は僕が訴え続けた事をすでに忘れていました。
父と母は、僕がこの学校へ行かないと言い出したのは単なる気の迷いだと思ってすべてを片付けようとしていました。
でも僕は、入学式が済んでもまだ心の中にモヤモヤした気持ちが残っていました。
だから僕は、カメラの前でその時言いたかった事を全部言いました。
「僕は父さんや母さんの言う通り、ちゃんとS学園に入学したよ。ずっとがんばって勉強して、やっと期待に応える事ができたんだ。だから、これからは自分のやりたいように生きていく。僕の役目はもう終わった。
家にいたいと言う僕を追い出してここへ連れてきたのは父さんと母さんなんだから、僕がいなくて淋しいなんて絶対に言わないで。
僕は卒業するまで絶対家に帰らない。卒業しても家には帰らないかもしれない。
それでも、帰って来いなんて絶対に言わないで。僕を家から追い出したのは自分たちだっていう事を、絶対に忘れないでね」
僕がカメラに向かってそう言った時、父と母はとても悲しそうな顔をしました。
でも僕には、両親がどうしてそんな顔をするのか全然分かりませんでした。
僕は両親の期待にちゃんと応えたのに、どうしてそんな顔をされるのか納得ができませんでした。
それからしばらく寮の部屋の中に気まずい空気が流れました。その時母は、泣きそうな顔をしていました。
その後、大きな音をたてて部屋のドアが外側から開きました。そのドアを開けたのは、僕と寮で同室になる高等部の先輩でした。
先輩は部屋の中に流れる気まずい空気に気づき、ちょっと不思議そうな顔をしていました。
両親は先輩に小さく頭を下げてすぐに部屋を出て行きました。
その時僕は、本当に1人ぼっちになってしまった事を実感しました。