6.

 作文を読み終えてマイクの前を離れると、音響を担当していた先輩が笑顔で僕に声を掛けてくれた。
「良かったよ、お疲れ様」
「ありがとうございます」
僕はすごくほっとしていた。作文は最後まで詰まらずに読めたし、これならきっと田辺さんも合格点をくれるに違いないと思っていた。
「隣でご飯を食べようか」
僕はその後先輩に誘われ、隣接する放送準備室へ行って彼と一緒に昼ご飯を食べた。 それまで何も知らなかったけど、お昼の放送に関わる生徒はいつもそこで交代で昼ご飯を食べているようだった。

 放送準備室はそれほど広くはなくて、傷だらけのテーブルと3つの椅子が部屋の真ん中に置いてあるだけだった。 そして奥の壁一面が全部棚になっていて、そこには本やビデオテープなどが雑多に並べられていた。 その部屋の中は、少しだけ肌寒かった。
「座って。お腹空いてるよね。早く食べよう」
僕は先輩に促され、1番奥の椅子に腰かけた。そして先輩は僕の向かい側に座った。 その時もうテーブルの上には2人分の食事がセットされていた。
「僕は、松橋っていうんだ。高等部の3年生だよ」
先輩は食事を食べ始める直前に自己紹介をしてくれた。
松橋さんは猫のように茶色い髪を両手でかき上げ、それから僕と一緒に食事を始めた。
お昼のメニューは肉じゃがだった。でも僕はニンジンが食べられない。
松橋さんは、僕が皿に乗ったニンジンを避けているのを見てクスッと笑った。僕は、ちょっと恥ずかしかった。
「沢村くんだったよね?」
「はい」
先輩は食事の最中、僕に気を遣って話しかけてくれた。本当なら後輩の僕が気を遣わなくちゃいけないのに、僕はどこへいっても気が利かない人間だった。
でも彼はそんな僕にすごく優しくしてくれた。 松橋さんは柔らかな雰囲気を持っていて、話し声は常に穏やかだった。
「田辺と一緒の部屋なんだって?」
突然田辺さんの名前が出てきて、ちょっとドキドキした。
「君には一度会ってみたかったんだ。田辺のお気に入りがどんな子か見てみたかったんだよ」
松橋さんは僕の目を見て微笑みながらそう言った。 僕はその言葉を聞いて喉を詰まらせてしまい、慌てて水をガブ飲みした。
「大丈夫?」
松橋さんは悪びれもせず僕を真っ直ぐに見つめていた。僕が喉を詰まらせたのは、彼のせいだというのに。
「沢村くんは素直なんだね。あの作文、すごく良かったよ」
「ありがとうございます」
僕はやっと喉の詰まりが治まったけど、今度は急に褒められて恥ずかしくなった。
あの作文は僕が思った事をそのまま書いただけだ。僕にとってはただそれだけの、日記のようなものだった。
「今朝田辺から君の事をよろしくって言われたんだ」
「えっ?」
僕は驚いて箸を持つ手を止めた。まさか田辺さんがそんな事を言っていたなんて、思いもしなかった。
「あいつ、口は悪いけどいいヤツなんだよ」
松橋さんは笑顔を絶やさずにそう言った。でも僕にはもうそんな事は分かっていた。


 その日は僕の身に様々な事が起こった。作文を読んだ事がきっかけで、何かが変わろうとしていたんだ。
僕は放送準備室でお昼を済ませた後、職員室へ寄って高山先生にお礼を言ってから教室へ向かおうと思っていた。
田辺さんが言うように、作文を読む事を引き受けたのは僕にとって大きな進歩だった。 それは作文を読み終えた後に、初めて自覚した事だった。
作文を読む事は他の人にとっては簡単な事だったのかもしれないけど、気弱な僕にとっては本当に一大事だった。 でもそれをやり遂げた後、僕の心の中にほんの少し自信が芽生えた。
だから僕は、作文を読む機会を与えてくれた高山先生にすごく感謝していたんだ。

 S学園の職員室にドアはない。
職員室はいつもオープンになっていて、入口付近に置いてある灰色のロッカーがかろうじて先生たちの机を隠しているような状態だった。
僕は職員室の入口に立って、そこから高山先生の姿を探した。
でも先生たちのほとんどはまだ食堂から戻っておらず、3列に並んだ机の周りには全然人が見当たらなかった。
僕はしかたなく諦めて教室へ戻りかけた。
高山先生には放課後もう一度会いにくればいい。僕はそう思い、灰色のロッカーの前で回れ右をした。
するとその時、どこかから急に高山先生の透き通る声が聞こえてきた。僕はもう一度職員室の中を覗いたけど、先生がどこにいるのか分からなかった。
「沢村くんの作文、良かったでしょう?」
耳を澄ますと、高山先生の声がすぐ近くで聞こえた。
僕はその時ようやく気がついた。先生は、ロッカーの向こうで誰かと話をしていた。
僕はその時ロッカーの真裏から職員室の中を覗いていたから、高山先生のいる所は僕の居場所からちょうど死角になっていたんだ。
「作文も素晴らしかったけど、読むのも上手だったわね」
その時、高山先生と話している別な女の先生の声がすぐ近くで聞こえた。
先生たちはその時僕の事を褒めてくれていて、なんだか出て行きづらくなってしまった。
「彼と同室の田辺くんが推薦してくれたの。沢村くんは朗読が上手だから、是非作文を読ませてやってほしいって」
僕は、またも驚いていた。田辺さんが高山先生にそんな事を言っていたなんて、全然知らなかったからだ。 だいいち、田辺さんはそんな事僕には一言も言っていなかった。
僕はロッカーの裏でずっと先生たちの会話を聞いていた。 もう本当に出て行けるような雰囲気じゃなかったし、かといって今動けば僕の足音が先生たちの耳に届いてしまいそうだったから、結局黙ってロッカーの陰に潜んでいた。
「田辺くんって、退学になった横山くんと同室だった子?」
「そうよ」
僕はその時、すごくドキドキしていた。退学になった人というのは、前に田辺さんが話してくれた、隣町で女の人をレイプした生徒の事だろうか。
「横山くんが退学になった時、田辺くんは同室の先輩としてすごく責任を感じてたみたいなの」
「どうして? 田辺くんは何もしてないのに」
「田辺くんは、彼が悩んでる事に気付いてあげられなかった事を、すごく悔やんでたみたい」
「田辺くんは面倒見がいいから、そう思ったのかもしれないわね」
「前にあんな事があったから、沢村くんの事をすごく気にかけてるのよ。沢村くんはおとなしくて、あまり他の生徒と交流がないみたいだから……」
「そういえば、横山くんもおとなしい子だったわね」
「でも田辺くんにはすごく懐いてたのよ」
僕の心臓はドックン、ドックン、と大きく音をたてていた。それはロッカーの向こうにいる先生たちに聞こえてしまいそうなほど大きな音だった。
そのうちに廊下の方から誰かの足音が聞こえてきた。きっと先生たちが食堂から戻ってきたんだ。
僕はもう足音が響くのも気にせず、一目散にそこから逃げ出した。 もうとても高山先生の話を聞き続ける余裕なんかなかった。
心は大きく乱れていた。心臓はドキドキしていたし、頭のてっぺんがすごく熱かった。
もう僕は、どうしてもそこにいるのが耐えられなかった。


 廊下を走り抜けて1年C組の教室へ戻ると、僕を取り巻く環境は大きく変化していた。
僕が戻ると今までほとんど口を利いた事のないクラスメイトがたくさん駆け寄ってきて、松橋さんや高山先生のように僕の事を褒めてくれたんだ。
「沢村くん、作文を読むのが上手だね」
「今度は弁論大会に出なよ」
「ねぇ、後でもう一度読んでくれる?」
いつもは真っ暗に感じていた教室が、その時だけはとても明るく見えた。
窓の外から入り込む太陽の光や、お揃いの制服を着たクラスメイトが、初めて温かく感じた。
後から考えるとすごく恥ずかしいけど、僕はその時皆の前で泣いてしまった。
ずっと友達ができなくて淋しい思いをしていたから、皆が話しかけてくれた事はすごく嬉しかったはずなのに、その時は胸が痛くて張り裂けそうだった。
「どうしたの? 沢村くん」
「どうして泣いてるの?」
僕が泣いた時、皆はすごく優しくしてくれた。
きっと皆には僕がどうして泣いてしまったのか分からなかったと思うけど、わけも分からず泣いている僕を皆が優しく慰めてくれた。
それでも僕は涙を止める事ができず、右手に握り締めた作文用紙にポロポロと涙の粒が零れ落ちた。

 僕は昔から、人の気持ちに敏感だった。
その日1日でいろんな事を知ってしまい、すごく混乱していた。
その時僕の頭の中には、田辺さんの事以外に何もなかった。
僕は気付いてしまったんだ。
本当は、すぐにでも田辺さん本人にはっきり聞いてみたかった。
『田辺さん、横山っていう人の事が好きだったんですか?』