7.
僕はその日、授業が終わってもすぐ自分の部屋へは戻らなかった。
それはクラスメイトの1人が自室へ遊びに来るようにと誘ってくれたからだった。
僕は他の人の部屋へ行くのが初めてで、少し緊張した。
でも寮の部屋は全部造りが一緒だったから、友達の部屋へ行っても自分の部屋にいるのとあまり気分は変わらなかった。
ただそこに田辺さんがいない。いつもと違っていたのは、その一点だけだった。
今度の事がきっかけで、僕にはいっぱい友達ができた。そしてその事はもちろんすごく嬉しかった。
同い年の友達とはやっぱり話が合ったし、田辺さんと話す時のように気兼ねする事もなかった。
僕はその日になってやっと両親と離れてもちゃんと生きていけるという確信が持てた。
それまでの僕は孤独だった。
父さんや母さんには電話する事もできなかったし、こっちで友達を作る事もできず、本当に淋しくてたまらなかった。
だからクラスメイトが声をかけてくれた時はすごく嬉しかった。
でも他の子の部屋で遊んでいても、僕の頭には常に田辺さんの事があった。
僕はいつ彼を好きになってしまったんだろう。
最初は彼が怖くてたまらなかったのに、いったいいつ彼を中心に物事を考えるようになったんだろう。
それはよく分からなかったけど、僕の頭の中はいつの間にか田辺さんの事でいっぱいになっていた。
その日僕が部屋へ戻ったのは、夕食を食べた後だった。
僕は授業の後ずっと友達の部屋で過ごし、そのまま食堂へ行って夕食を済ませ、それからやっと自室へ戻って田辺さんと再会したのだった。
田辺さんはその時、珍しく机に向かって勉強していた。
彼はもう私服に着替えていて、僕が戻るかなり前からそうしていたような雰囲気だった。
「ただいま」
僕がそう言って部屋の中へ入ると、田辺さんは僕に背中を向けたままサッと右手を上げて『おかえり』の合図をした。
僕は今まで、田辺さんが机に向かうのは髪を整える時だけだと思っていた。
僕に背を向けて勉強している田辺さんの姿は本当に見慣れなくて、部屋へ帰った時からちょっとおかしな気分になっていた。
僕はベッドの上に腰掛け、そのまましばらく田辺さんの背中を見つめていた。
その時僕は、何か言わなくちゃいけないと思っていた。
でも何をどこまで言ったらいいのか分からなくて、結局何も言い出せなかった。
田辺さんが高山先生に僕の事を頼んでくれたのは立ち聞きした話だったし、松橋さんに僕をよろしくと言ってくれた事は内緒にするように言われていた。
だから本当はいっぱいお礼を言いたいのに、全然何も言い出せなかった。
「何の勉強をしてるんですか?」
結局僕が彼の背中に語りかけたのは、そんなたわいのない話だった。
でも僕は田辺さんの返事を聞いた時、胸がズキンと痛んで一瞬身動きができなくなった。
「卒論だよ。大学は推薦で決まりだけど、ここを卒業できなきゃ話にならないからな」
卒論。それは入学したての僕にはまだピンとこない響きだった。
父さんや母さんはS学園に入学すれば僕の将来は安泰だと思っていたようだけど、実際にここへ来てみるとそうではない事がすぐに分かる。
僕だって進級試験に落ちればすぐ家に帰されてしまうし、卒業間近の田辺さんは、卒論をしっかりやらないとS学園卒業の肩書きがあっさり奪われ、大学への推薦も取り消されてしまう。
僕はその夜、田辺さんと一緒にいられる時間が残り少ない事を初めて意識した。
あと半年。この秋が終わって、冬を乗り越えて、雪融けが始まる頃には田辺さんとサヨナラしなくちゃいけない。
田辺さんの口から出た『卒論』の一言で、一気にそのイメージが膨らんだ。
これ以上田辺さんの事を好きになってはいけない。
半年後にお別れする人の事を好きになってはいけない。
僕は田辺さんの大きな背中を見つめ、彼に対する思いを封印する決意をした。
その夜は、とても寒かった。
北海道は冬の訪れが早い。きっとこれからあっという間に冬がやってきて、あっという間に雪が降り出すのだろう。
僕は消灯時間になるとすぐ布団に潜り込んで目を閉じた。
その夜、電気を消すと真っ暗になるはずの部屋は田辺さんの机の上だけがいつまでも明るかった。
僕はなかなか寝付く事ができず、少しウトウトしてはパッと目が開くのを何度も繰り返していた。
そして僕は、目が開くたびに机に向かう田辺さんの姿を確認した。
彼はいつ見ても明るい光の下で真剣に書き物をしていた。
僕はその背中を確認するたびに目に涙が浮かび、そのたびに布団に潜って涙を拭うのを何度も繰り返した。