9.

 翌日は土曜日だったから、授業は午前中で終わりだった。
僕は食堂で昼ご飯を食べた後、図書館へ寄ってから自分の部屋へ戻った。クラスメイトから遊びに誘われたりもしたけど、その日は断わってすぐに部屋へ戻る事にした。
部屋へ戻った時、田辺さんはベッドで眠っていた。昨夜長々と机に向かっていたから、きっと疲れていたんだ。
窓の外から午後の日差しが入り込み、うつ伏せで眠る田辺さんの白い頬を明るく照らしていた。
田辺さんは今朝髪を立てる元気がなかったようで、その時は髪を下ろしていた。
僕はそっと彼に近づき、床の上にしゃがみ込んで枕に頬を埋める彼の寝顔を覗き込んだ。
田辺さんは白い枕をヨダレで濡らし、スースーと寝息を立てて眠っていた。 その寝顔は子供っぽくて、なんだかちょっとかわいかった。
僕は静かに立ち上がり、ずり落ちてしまった毛布を田辺さんの肩に掛けてあげた。
それからそっと自分のベッドへ腰掛け、いつものように足を伸ばして図書館から借りてきた本を黙読していた。
静かな部屋の中には、田辺さんの寝息だけが小さく響いていた。

 田辺さんが目を覚ましたのは、夕方5時頃だった。
彼はゆっくりと寝返りを打ちながら毛布を蹴って、Tシャツの袖で口の周りのヨダレを拭った。 そしてすぐに立ち上がって僕のベッドへ飛び乗り、僕が読んでいる本を横から覗き込んだ。
「何読んでる?」
田辺さんの声は寝起きのせいか妙にハスキーだった。
「官能小説ではありません」
僕がそう言うと、彼はつまらなさそうに舌打ちして大きなアクビをした。
その時間、外は暗くなりかけていた。田辺さんはベッドを飛び下りて窓のカーテンを閉め、クローゼットの中から紺色のハーフコートを出してそれを羽織った。
「田辺さん、出かけるんですか?」
僕は少し淋しさを感じながらそう尋ねた。すると彼は何も言わずに僕のクローゼットからデニムのハーフコートを取り出し、それを僕に投げて寄越した。
「一緒に出かけるぞ」
田辺さんは、いつものドスの利いた声でそう言った。 僕は嬉しくて、すぐに本を投げ出して立ち上がった。


 僕らは寮長に外出届を出してから、すぐにバス亭へ向かった。
外の空気は冷たくて、周りの景色は青かった。左右に並ぶ木々も、遠くの空も、足元の小石も、全部青かった。
田辺さんは歩くのがすごく早かった。僕は急ぎ足で彼の大きな背中を追いかけながら、田辺さんに尋ねた。
「どこへ行くんですか?」
「いい所だよ」
彼は抽象的にそう答えた。田辺さんはその後小さくフフッと笑い声を上げた。
その後すぐに、僕らの横をバスが走り抜けていった。
田辺さんはダッシュでバス亭まで走り、そこにバスを止めさせて僕が来るのを待っていてくれた。
その時、バスの中にはほとんど乗客がいなかった。 僕と田辺さんは1番後ろの座席に座り、青い景色を見つめながら20分間バスに揺られた。
「お前、外出するの初めてか?」
「はい」
僕が頷くと、田辺さんは呆れ顔で僕の顔をじっと見つめた。
田辺さんはよく外出をするようだったけど、僕は今まで本当に寮と校舎の往復だけだった。
「たまには外へ出ないとおかしくなっちまうぞ」
そう言う時の田辺さんはとても真剣な目をしていて、少しドキッとした。

 僕はバスを降りた時、すごく不安になった。僕らが降り立ったバス亭の周りには草むら以外に何もなくて、時々サワサワと風の音が聞こえるだけだったからだ。
「よし、行くぞ。10分ぐらい歩くからな」
田辺さんは僕の不安をよそに、草むらの中をさっさと歩き始めた。
僕は彼についていくのに必死だった。周りの草は僕の膝のあたりまであって、とてもすんなりと歩く事はできなかった。
田辺さんはどんどん草むらの奥へ入って行った。僕はだんだんついていけなくなり、田辺さんの背中が徐々に小さくなっていった。
その頃周囲は真っ暗で、そのうちに右も左も分からなくなってきた。

 僕が彼を完全に見失ったのは、いつ頃だっただろう。
田辺さんの背中が見えなくなった時、草むらの真ん中に立ち止まって前後左右を見回した。 その頃ちょうど月が顔を出して、辺りは薄っすらと月明かりに照らされていたけど、どこにも田辺さんの姿はなかった。
次に僕は耳で田辺さんの足音を探した。でも、僕の耳には緩やかな風の音以外に何も聞こえて来なかった。
「た……田辺さん!」
僕は彼の名前を呼んで、どこかから返事が聞こえてくるのを待った。でも必死に耳をそばだてても、彼の声は聞こえて来なかった。
それからもう一度前後左右を見回した。でも周りに見えるのは風に揺れる草の群れだけで、僕はその時世界中でたった1人になってしまったような思いがした。
僕は夜空に輝く月を見上げた。するとすぐに月が涙で滲んだ。そしてほんの一瞬の間に、いろいろな事を考えた。
ここから寮まで1人で戻れるだろうか。帰りのバスはいったい何時にやって来るんだろう。
そういえば僕はお金を一切持たずに来た。バスに乗るのはいいけど、運転手さんは僕の事情を理解してくれるだろうか。 それに僕が先輩とはぐれてしまった事を、ちゃんと泣かずに説明できるだろうか。
「わっ!」
僕がものすごく不安に駆られていた時、突然田辺さんが後ろから背中を押した。
僕は前へ2〜3歩つんのめり、そのまま草むらに手をついて転んでしまった。
「お前、鈍いなぁ。ほら、立てよ」
田辺さんは半分笑いながらそう言って、背中から僕を抱えるようにして立たせた。
僕はもう堪えきれず、しゃくり上げて泣いた。すると田辺さんは、慌ててこう言った。
「どうしたんだよ。泣くなよ」
そう言われても、すぐに泣き止む事なんかできなかった。
こんな事は田辺さんにとっては軽い冗談でしかないのかもしれない。でも僕は田辺さんが思っているよりずっと気弱で、何一つ満足にできない人間なんだ。
僕は自分が情けなかった。ほんの1分田辺さんを見失っただけで、こんなに不安になるなんて。 その上彼の前で泣いてしまうとは、本当に情けなくてたまらなかった。
「ごめん。怖かったか?」
田辺さんは僕の頭をなでながら、心配そうな声で言った。
その時は彼の顔さえ見られなかった。次々と溢れ出る涙を拭う事で精一杯だったからだ。
小さな両手は涙に濡れ、そこに夜風が当たってスースーした。

 「怖い思いさせてごめん」
僕はその後、田辺さんにしっかりと抱きしめられた。田辺さんの胸は広くて温かくて、すごく安心した。
「これからいい所へ連れて行ってやるからな」
田辺さんは、僕を軽々と抱き上げて歩き出した。
僕はやっと涙が止まった。でも今度はすごく恥ずかしくて、頬が熱くなった。 中学生にもなって誰かに抱っこしてもらうなんて、本当に恥ずかしかった。
でも田辺さんの胸は心地よかった。僕はその時、小さい頃父さんに抱かれてお祭りへ行った事をふと思い出していた。
熱い頬を夜風で冷ましながら、田辺さんの肩にしっかりしがみ付き、彼の肩越しに月を見つめた。
僕らの周りには誰1人いなかったけど、月だけはちゃんと僕らを見守ってくれていた。
「もうちょっとだからな」
田辺さんはそう言いながら草むらを歩き続け、僕を抱いたまま突然目の前に現れたコンクリートのらせん階段を上っていった。
それはとても狭い階段だった。多分、2人並んで歩くのが難しいほど狭かった。
田辺さんが階段を上ると、僕もどんどん高い所へ上っているのがはっきりと分かった。 やがてらせん階段は終わりを告げ、1番上まで上りきった時、僕はやっと地面に下ろされた。
辿り着いた所は、四角くて狭いスペースだった。その時僕らはかなり高い所にいた。

 「ほら、見てみろよ」
強い風を感じながら田辺さんの指さす方向を見つめると、そこには遠くの街明かりが見えた。
黒い空の下には赤や青の小さな光が宝石のように散らばっていて、それらは時々点滅していた。 オレンジ色の光が真っ直ぐに動くのは、きっと車のライトだろう。
そこから見る景色は、本当に本当に素敵だった。その辺りは空気が綺麗だし、周りに何も障害物がなくて、目の前に広がる景色はまるで1枚の絵のようだった。
「すごーい!」
僕がそう叫ぶと、田辺さんがいろいろ説明をしてくれた。
1番強い光を放っている所は隣町のパチンコ屋さんで、青い光が小さく点滅している所はガソリンスタンドだと彼が言った。
でもそんな事はどうでも良かった。 宝石箱をひっくり返したような素敵な夜景が見られたから、もうそれだけで大満足だった。
「来て良かったか?」
「はい!」
「ここ、展望台なんだ。ここの存在を知ってるヤツはほとんどいないけどな」
田辺さんはそう言って遠くの街明かりをじっと見つめていた。僕はここへ彼と一緒に来られた事が何よりも1番嬉しかった。 その時の僕は、自分がさっきまで泣いていた事なんかすっかり忘れていた。
「ここも見納めだ。雪が降ったらもう来られないからな」
田辺さんが、遠い目をしてそう言った。
僕はやっと上機嫌になれたのに、彼のその一言でまた気分が急激に落ち込んでしまった。
またあの不安が僕の頭をよぎった。またあの悲しみが僕の頭をよぎった。
田辺さんとはあと半年しか一緒にいられない。どんなに好きになっても、半年後には絶対にサヨナラしなくちゃいけない。
そう思った時、遠くの宝石たちが滲んで見えた。僕はできるだけ目を大きく開けて、夜風が涙を乾かしてくれる事を願っていた。
「ここ……よく来るんですか?」
涙声にならないように気をつけて、田辺さんに話しかけた。彼は僕の隣に立って、まだ遠くの明かりに見入っていた。
「前に同室だったヤツとよく来たんだ」
その答えが風に乗って耳に届いた時、自然と僕の目から涙が溢れた。 涙の向こうに見える宝石たちは、あっという間にただのぼやけた光に変わってしまった。

 田辺さんと一緒にここへ来たのは、きっと横山さんだ。彼がここへ連れてきたのは、僕だけじゃなかったんだ。
そんなつもりはなかったのに、とめどなく涙が溢れて止まらなくなってしまった。
田辺さんはそんな僕の様子に気づき、もう一度抱きしめてくれた。
僕はその夜、遂に自分の思いをコントロールする事ができなくなった。