4.

 土曜日は3時間で授業が終わり、俺たち4人は昼過ぎにはすでに校舎を出ていた。 早めに授業が終わったせいか、その日は皆がなんとなく浮かれていた。
校門へ向かって歩く時、後ろから初音のマフラーを引っ張って首を絞めてやった。
すると彼は仕返しをするためにムキになって俺を追いかけ回し、なかなか追いつけないのが分かると武志と協力して俺を挟み撃ちしようとした。
凍りついた道の上を夢中で駆け抜けると、冬の太陽を背中に感じた。俺の行く手は学校帰りの学ランの群れに時々遮られてしまった。 最終的には門の前で2人に捕まり、俺は首に巻いたマフラーを初音に思い切り引っ張られた。
「ちょっと、苦しいよ。もう降参だってば」
俺は散々走った後で息を切らしていた。そんな時に首を絞められると、苦しくて体が酸素不足を訴え始めた。
門の前でしゃがみ込んだ時、やっと初音が俺のマフラーを解放してくれた。
地面に手をついてゲホゲホ咳き込んでいると、学校帰りの生徒たちがクスクス笑いながら俺の横を通り過ぎていった。
「誠、大丈夫?」
冷たい風が吹いた時、初音が俺の前にしゃがんで心配げな顔を見せた。
彼の前髪は北風に揺れ、少し潤んだ目が太陽に煌いていた。
その目を見た時、また彼と過ごした夜の事を思い出した。俺は一瞬周りが見えなくなり、冬の太陽の下で彼を抱き締めようとした。
初音の肩に手を伸ばすと、風の音も、帰宅する生徒たちの声も、急に耳から遠ざかっていった。
もうすぐ彼の温もりに触れる事ができる。
そう思った時、初音の肩に伸ばした俺の手を止めさせたのは、あの人の影だった。
竜二が俺たちの横に立つと、日差しが遮られて初音の目から光が失われた。そして俺はふと我に返った。
「お前ら、何してるんだよ」
竜二はクスクスと笑いながら俺たち2人を見下ろしていた。俺の手はその瞬間に力なく凍った地面へ着地した。
見上げた彼の髪は、冷たい風に大きく乱れていた。


 その後はいつものパターンだった。
俺たちはすぐに皆でアイスクリーム屋へ向かい、いつもの席でいつものようにお喋りに興じた。
ほんの短い間初音とじゃれ合ったせいで、俺は随分機嫌がよくなっていた。
アイスクリームの味は格別においしく感じたし、初音が話しかけてくれるとそれだけで嬉しくなった。 竜二が時々彼に触れても、その時はあまり気にもならなかった。
暖かい空間には俺たち4人の笑い声が響いていた。初音は楽しげに微笑んでいたし、俺も自然と笑顔になれた。
でもそんな楽しい時間は長くは続かなかった。ある時竜二が口にした一言で、俺の希望は儚く消えてしまったのだった。
「そうだ、これから映画を見に行かないか? テレビで宣伝してたSF映画がすごくおもしろそうなんだよ」
ちょうど皆がアイスクリームを食べ終わった頃、竜二が身を乗り出して突然そう言った。
俺は戸惑った。彼が皆を誘ったのは、俺と初音が一緒に見る約束をしていた映画に違いなかったからだ。 その映画はかなり評判がいいようで、テレビの情報番組でもよく紹介されていたんだ。
竜二は皆の顔色を伺って俺たちがどう答えるか待っているようだった。
俺は何と言っていいのか分からず、ただ黙って俯いた。

 「それ、僕もおもしろそうだと思ってたんだ。皆で見に行こうよ」
やがて、俯く俺の耳に初音の声が響いた。
視線の先には使用済みのスプーンがあった。テーブルの下で両手の拳を握った時、隣で武志が頷く気配がした。
「誠も一緒に行こうよ」
初音のその声を聞いた時、俺は恐る恐る顔を上げた。すると目の前に彼の笑顔があった。
初音はにっこりと微笑んでいた。キラキラした目を細めて、本当に楽しそうに微笑んでいた。
以前一緒に喫茶店へ行った時、俺はテーブルの下で彼の手をぎゅっと握った。 すると温かくて小さな手がすぐに俺の手を握り返してくれた。でもそれはもう遠い過去の記憶になりつつあった。
テーブルの下で強く拳を握っていると、血圧が上がって頭の中が熱くなってきた。
これはきっと、はたから見るとそれほどたいした事ではなかった。
新しい映画は毎週次々と公開される。だったらまた次の機会に彼を別な映画に誘えばいい。
それは漠然と分かっていたけど、自分がその行動を起こせない事も分かっていた。
初音と2人で過ごした頃と今とでは状況がまったく違いすぎる。 あの頃竜二の隣にはかわいい彼女がいた。でもその席はすでに空いていて、そこは初音の居場所になりつつある。
そんな状況の中で初音を誘う事なんかとてもできやしない。 俺の勇気が詰まった箱の中身は、すでに空っぽになっていた。

 俺はもうその場にいる事が耐えられなかった。初音と一緒にいるのもつらかったし、竜二と一緒にいるのも苦しかった。
「ごめん。用があるから、俺は帰るよ」
俺は2度と初音の顔を見ず、そう言って席を立った。 自分が使ったスプーンも、空になったアイスクリームのカップも、すべてを置き去りにしてすぐに外へ飛び出した。
思い切り道路を駆け抜けると、冷たい風が頭を冷やしてくれた。そして行き交う車の音が耳に残る初音の声をかき消してくれた。
『誠も一緒に行こうよ』
俺はその何気ない一言がどうしても引っかかっていた。
彼はまるで俺を初めて映画に誘うかのようにそう言った。 初音はきっと、俺と約束していた事を竜二に知られたくなかったんだ。
約束の相手が俺でも武志でも、初音は同じ態度を取ったに違いない。
やっぱり初音の1番大事な人は竜二なんだ。彼にとって俺は竜二以下の存在でしかないんだ。
そんな事は初めから分かっていた。 俺は初音にとって2番目の存在で構わないと思っていたし、彼にもちゃんとそう言ってあった。 そして自分はその位置で満足できると思っていた。
ところがこの時思い知ったんだ。1番と2番の差が果てしなく大きいという事を。 1番になれないのなら、2番でも100番でも同じだという事を。


 俺は午後2時頃にはすでに自分の部屋にいた。
その頃部屋の中は日差しが入って妙に明るかった。外が明るいうちに帰ってきたのはすごく久しぶりだという気がした。
制服を脱いで何気なく着たセーターは、初音と過ごした夜に着ていたものと同じだった。 ぼんやりしながら足を通したジーンズは、やけに冷たかった。
皆が映画館へ向かっている頃、俺はコタツで足を温めていた。
ふと見つめたベッドの上にはオレンジ色の毛布が4つにたたんで置いてあった。 俺は右手でそいつを引きずり下ろし、床に寝転がって毛布を頭から被った。床はすごく硬くて、寝転がるとすぐに背中が痛くなってきた。
その毛布は初音と愛し合った時に使った物だった。ところが何度大きく息を吸ってもそこに初音の香りは感じられなかった。
俺は毛布の下で目を閉じて、すぐに眠る努力をした。
今眠ればきっと初音の夢を見る事ができる。夢の中の彼は、いつも俺に優しくしてくれる。今は少しの間それを楽しもう。
しばらく眠って目が覚めた時、初音との事は全部夢だったと自分に言い聞かせればいい。
初音の綺麗な肌や、潤んだ目や、ほんのり赤く染まった頬。そして彼の温もりと甘いキスの感触。
俺の頭にあるその記憶は、全部夢に見た幻だったんだ。 あまりにも彼を思う気持ちが強すぎて、夢と現実の区別がつかなくなってしまっただけなんだ。 だから、毛布に初音の香りが残っていないのは当然だ。
そうやって今日の事も、彼と過ごした夜の事も、全部夢の中の出来事だったと自分に言い聞かせればいい。
俺は昔からそうやっていろいろな事を諦めてきたんだから。
それができれば、これまで通り初音と友達でいられるんだから。