6.

 「ねぇ、早く行こう」
初音はそう言って俺のセーターの袖口を引っ張った。
細身な彼のどこにこんな力が潜んでいたんだろう。初音はそう思わせるほど強い力で俺を玄関から引きずり出した。
「財布を取ってくるよ」とか、「コートを着てくるよ」とか。 彼はそんな言葉を言う隙も与えてはくれなかった。
とにかく、あっ、と思った時にはもう外へ連れ出されていた。 初音があんまり急ぐので、ドアに鍵もかけずそのまま家を飛び出してしまった。

 俺は夜の街を初音に引きずられて歩いた。
駅前通りを行くと、飲食店のネオンが目に沁みた。 赤いのれんのラーメン屋の前を通りかかった時、風に乗っておいしそうな香りが漂ってきた。
初音に引っ張られて夜の街を歩くなんて、本当に夢みたいだった。 でも冷たい北風が頬に降りかかると、これは夢じゃないんだという事がはっきり分かった。
「僕、昨日調べたんだ。ここから僕の家へ行くにはバスに乗った方が早いんだよ。でもそのバスは1時間に1本しかないんだ」
初音はセーターの袖口をがっちり掴んで少し前を歩いていた。 吹き付ける風にマフラーが乱れても、そんな事はまったく気にせずグイグイと俺を引っ張って歩いていた。
するとその時、俺たちの横を減速したバスがゆっくりと走り抜けていった。
「あ、あのバスだ! 誠、走って!」
そのバスを見つけると、彼がそう言って振り返った。
俺は白い息を吐きながら必死に歩道を走ってバスを追いかけた。でも本当は、前を走る彼の背中を追いかけていた。


 やっとバスへ乗り込むと、俺たちは後部座席に並んで腰掛けた。 車内にはほとんど乗客がなく、前の方の席が3つほど埋まっているだけだった。
「よかった。間に合って」
初音はにっこり微笑んでそう言った。頬を真っ赤に染めて、息を弾ませながら。
彼の笑顔はすぐそばにあった。真っ赤な頬も、キラキラ光る目も、手を伸ばせばすぐ届くところにあった。 でも俺は、竜二のように簡単に初音に触れる事はできなかった。
バスが揺れると、俺たちの腕が何度もぶつかり合った。そして、そのたびにドキドキした。
俺は視線を宙に泳がせていた。車内の薄い明かりは、目に優しかった。
「今日は僕の家に遊びに来る約束だったよね?」
初音はいきなり俺のところへやってきて、ありもしない約束を語った。 そのセリフに隠された深い思いは、俺たちだけにしか分からないものだった。
初音が竜二の事で傷付いていた時、俺は同じ言葉を彼にぶつけた。
あの頃初音は竜二への思いに押しつぶされそうになっていた。俺は彼を一時でもその状況から解放してやりたくて、震える声でそのセリフを口にした。
そうしないと、初音が壊れてしまいそうだったから。そうしないと、彼が今にも泣き崩れてしまいそうだったから。
きっと初音の目には昼間の俺がそんなふうに映ったんだ。
彼は俺が傷付いている事を理解してくれたんだ。だからこうして俺のところへきてくれたんだ。
それが分かっただけで、もう胸がいっぱいだった。


 車内はとても暖かくて、すべての窓ガラスが曇っていた。 曇ったガラスは、俺たちを外の視線から守ってくれているようだった。
バスに揺られてしばらく時間が経った時、初音が遠慮がちに俺を肘で突いた。その合図で彼を見つめると、初音は曇った窓ガラスを指さした。
するとそこには指で書いた "まこと" という文字が浮かんでいた。 窓ガラスは文字の部分だけが透明になっていて、その向こうに街の明かりが見えた。
初音はちょっと恥ずかしそうに俯き、ガラスに文字を綴った手をそっと太ももの上に置いた。
俺はすごく嬉しくなって、右手の人差し指を曇ったガラスへ伸ばした。 自分の名前の横に "はつね" と書くと、もう遠慮せずに彼の手を力いっぱい握った。
初音はすぐに顔を上げ、2つ並んだ俺たちの名前をいつまでも眺めていた。彼は冷たい手で何度も俺の手を握り返してくれた。
バスの揺れは心地よかった。初音はその揺れに身を任せて俺の肩にもたれかかった。彼の温もりに触れると、すごくほっとした。
2人はその間何も話さなかった。
俺たちは言葉なんか交わさなくても、ちゃんと分かり合えていたんだ。