7.

 初音の家の前に立った時、何故だかすごく緊張した。
すごく変な言い方だけど、まるで結婚する相手の親に挨拶をしにきたような心境だった。 実際に結婚なんかした事がないから本当のところはよく分からないけど、その時はとにかく複雑な心境だった。
「緊張しなくていいよ」
初音にそう言われると、ますます緊張した。冬の夜空には、そんな俺を励ますかのように満天の星が輝いていた。

 彼の指がインターフォンを押すと、ドアの内側にパッと明かりが点いた。
やがて木造りのドアがそっと開き、空色のエプロンをした女の人が俺たちを出迎えてくれた。
「ただいま。友達連れてきたよ」
初音はエプロン姿の女の人にそう言った。それが彼のお母さんである事は明らかだった。
初音とお母さんはよく似ていた。特に目が大きいところやまつ毛が長いところがそっくりだった。 毛先をカールした髪がなかったら、彼女と初音は瓜二つだった。
お母さんは上品で、物腰が柔らかくて、とても優しそうな人だった。
初音と同じ目に見つめられると、ドキドキして思わず下を向いた。 ふと彼女の足元を見ると、さっきの俺と同じようにスニーカーを引っかけているのが分かった。
「もしかして、誠くん?」
そう言われた時は、すごく驚いた。 彼女が俺の名前を知っていた事も驚きだったし、俺の顔を見て誠と言い当てた事も驚きだった。
再び顔を上げた時、初音にそっくりな目と視線がぶつかり合った。 俺が小さく頷くと、最初は硬い表情だった彼女の顔が見る見るうちに華やいでいった。
「あなたが誠くんなのね? 想像よりずっと素敵だわ。さぁ、早く入って」
彼女は初音と同じ笑顔を見せて、優しくそう言った。
俺は初音にそう言われたような気分になり、耳が熱くなるほど恥ずかしくなった。


 伏し目がちに彼の家へ上がると、真っ直ぐにキッチンへ通された。
広いキッチンは薄い黄色の家具で統一されていた。 食器棚も、ダイニングテーブルも、冷蔵庫も、優しい春のような色だった。
「お父さんはまだ帰ってないけど、もう夕食にしましょう。2人とも、早く座って」
初音のお母さんはにこやかに微笑んでテーブルの上にホットプレートを置いた。彼女の声はひどく弾んでいた。
俺は初音に促され、ドキドキしながら硬い椅子に座った。 彼はゆっくりとコートを脱ぎ、それから隣の椅子にどっかりと腰掛けた。

 「たくさん食べてね」
お母さんが用意してくれた夕食は焼肉だった。彼女は俺の向かい側に座り、ホットプレートの上に手際よく牛肉を乗せていった。
キッチンの中はオレンジ色の明かりで照らされていた。そこにはしばらく肉の焼ける音だけが響いていた。
ふと初音を見つめると、彼は白い歯を見せてにっこり笑った。
俺はこの状況にすごく戸惑っていた。 少し前までは初音を諦める事を考えていたのに、彼は突然現れて、いきなり俺を家に連れてきたんだから。
「熱いから気をつけて」
初音のお母さんがよく焼けた肉を白い器に乗せ、それをサッと俺に手渡した。
もう本当に胸がいっぱいで、とても肉なんか食べられそうにはなかった。 でも勧められたものを断るのも失礼な気がして、半ばヤケクソ気味に厚い肉を口の中へ放り込んだ。

 俺がムシャムシャ肉を頬張っていると、お母さんが話しかけてきた。
彼女は俺に散々食事を勧めたけど、自分はほとんど何も口にしていなかった。
「誠くんは足が早いんですってね? もしかして、陸上をやってたの?」
「いいえ」
「お父様は工場を経営なさってるんでしょう? いずれは後を継ぐのかしら?」
「さぁ……」
すごくドキドキして、お母さんの顔も初音の顔もまともに見られなかった。 この時は、せいぜいテーブルと見つめ合うのが精一杯だった。
彼女が俺の事をいろいろと知っているのは、初音が話したからに違いなかった。
彼はいったいどんなふうに俺の事を語ったんだろう。それを考えると、ドキドキして頭の中が熱くなってきた。
「ねぇ誠くん、この子、学校ではどんな様子なの?」
しばらくすると、不意に方角の違う質問をぶつけられた。
俺はその質問の模範解答を考えるため、口に入れた肉をしばらくゆっくりと噛み締めていた。 でもうまく考えがまとまらないうちに、肉の塊が喉を通って胃の中へおさまってしまった。
「いつも、かわいいです」
咄嗟に思い立ってそう言った時、テーブルの下で初音に思い切り足を蹴られた。
その痛みに耐えながら尚も肉を頬張ると、お母さんがクスクスと笑いながらホットプレートの上に野菜を乗せ始めた。
「本当にそうなの? 私にはかわいくない事ばかり言うんだけど」
そんな事はない。初音はいつだってかわいいんだ。
俺は心の中でそう叫んでいたけど、その言葉は決して口には出さなかった。