8.

 初音の部屋は、かわいらしい雰囲気だった。
特に目を引いたのが、窓を覆うカーテンだった。
空色のカーテンには等間隔にフワッとした白い雲の絵がプリントされていた。 窓はすっかり覆い隠されていても、そこには晴天の空が広がっているかのようだった。
明らかに手縫いらしきカーテンや、パッチワークをあしらったベッドカバー。
青い色調で統一されたそれらを見ると、彼がお母さんに愛されているのがよく分かった。
「ごめん。母さんの相手をするのは疲れたよね?」
初音は苦笑いをしながらそう言った。
彼のお母さんは夕食が済むまでずっと喋り続けていた。 初音は彼女の話に無関心だったけど、俺は必死に相槌を打って話を合わせていたのだった。
彼がベッドの端に腰掛けたので、俺も少し距離を置いてその横に座った。
初音と並んで座ると、またドキドキしてきた。 ずっと2人きりになる事を望んでいたくせに、いざそうなるとすごく緊張した。
「そんな事ないよ」
ありきたりな言葉を返すと、初音はほっとしたように微笑んだ。俺たちの会話は、そこでぷっつりと途切れてしまった。


 見えない場所にある時計が、当たり前のように時を刻んでいた。
その秒針は1秒ごとにカチッと小さく音を鳴らした。2人が黙っていると、その音がやけに耳についた。
俺たちはなんとなく気まずい雰囲気だった。お互いに黙ったままで、ただ刻々と時間だけが流れていった。
俺は何か話さなければいけないと思った。でもいったい何を話せばいいのかよく分からなかった。
学習机の上には一輪挿しが置いてあり、そこには小さな白い花が飾られていた。
俺はまずその花の種類でも尋ねてみようかと思った。するとその瞬間に、白い花びらが1枚音もなく机の上に落下した。

 「今度の体育の時間、跳び箱をやるって言ってたよね? 僕、あれ苦手なんだ」
壁に貼ってある学校の時間割りを見つめて、初音がそう言った。その時はきっと、彼も何か話さなくちゃいけないと思っていたんだ。
「俺も……あまり得意じゃないな。小学生の時に跳び箱から落ちて、鼻血を出した事があったんだ。それからは、跳び箱が嫌いになった」
「1回そういう事があると、怖くなるよね」
「うん。1回そういう事があると、すごく怖くなる」
そう言った後は、もう言葉が続かなくなった。
急に昼間の出来事が思い出されて、すごく胸が痛んだ。
初音は俺との約束を隅に置いて、あっさりと竜二の誘いに乗った。俺はその事実にショックを受け、彼に背を向けてしまった。
でも初音は俺の事をちゃんと気に掛けてくれていた。だからこそわざわざ家まで来てくれたんだ。
それは本当によく分かっていた。彼に悪気がなかった事も、ちゃんと理解していた。
だけど1回そういう事があると怖くなってしまう。 いつかまた傷付く日がくるような気がして、すごく怖くなってしまうんだ。

 会話が途切れると、また秒針の音が部屋の中に響き渡った。
カチッ、カチッ、カチッ……
俺はその音を何度耳にした事だろう。
その音を聞けば聞くほど、初音との距離が離れていくような気がした。

 初音の指が、そっと俺の手に触れた。彼は不安げな目で俺を見つめていた。
「ねぇ、明日一緒に映画を見に行こうよ」
沈黙を破ったのは彼の方だった。
初音は無理をして笑っていた。口許は微笑んでいたけど、不安げな目はそのままだった。 彼が瞬きを繰り返すたびに、長いまつ毛が揺れていた。
彼のその様子を見た時、また胸がチクリと痛んだ。竜二の事で傷付いていた時、彼が今と同じ目をしていたからだ。
俺はこの気まずい雰囲気をなんとかしたいと思った。だからできるだけ明るく話すように心がけた。
「いいよ。どんな映画を見る?」
「SF映画。今日皆で見に行ったやつ」
「いや、どうせなら別な映画にしよう。それは今日見てきたばかりだろ?」
俺は当然のようにそう言った。既に見てしまった映画だと、初音が楽しめないと思ったからだ。 ところがその後、彼が意外な事を口にした。
「僕、見てないもん」
「え? 皆と一緒に見に行かなかったのか?」
「行ったよ。でも映画が終るまでずっと目をつぶってたんだ」
「どうして……」
なんとか話を弾ませようと思ったのに、また言葉が続かなくなった。
それを聞いた時は本当に驚いた。俺には彼が何故そんな事をしたのか全然理解できなかった。
かといって初音が冗談を言っているとは思えなかった。彼の口調が、ものすごく真剣だったからだ。

 不安げな初音の目に、じわっと涙が浮かんだ。それと同時に、口許の笑みも消えた。
俺はすごく動揺した。彼を泣かせる事はこの世で1番の大罪だと思っていたからだ。
「もう忘れちゃったの?」
初音は悲しげに俯いた。ふと気配を感じて机の方へ視線を向けると、白い花がまた1枚花びらを落とす瞬間を見た。
「あの映画は誠と一緒に見る約束だったんだよ。誠が一緒じゃないと、意味がないんだよ。 それなのに、どうして帰っちゃったの? 僕との約束を忘れちゃったから?」
そう言われた時は、かなりうろたえた。
俺は絶対に彼との約束を忘れたりはしない。忘れるどころか、この1週間ずっとその約束を頼りに生きてきたんだ。
だけど、不器用な俺はその思いをうまく口にする事ができなかった。
「違う! それは絶対に違うよ!」
「じゃあ、どうして一緒に来てくれなかったの?」
「……」
「僕、映画は全然見なかったよ。誠と一緒に見たかったから、今日は全然見なかった」
初音が小さく鼻をすすった。その時俺は、彼の頬に涙が流れ落ちるのをはっきりと見た。

 一瞬沈黙が走ると、また秒針の音がカチッ、カチッ、と部屋の中に響いた。
その時になって、やっと気が付いた。
俺は彼との約束を破ってしまったんだ。 彼に背を向けてたった1人で帰る事は、彼との約束をすっぽかす事と同じだったんだ。
俺は勝手に悪い方へ悪い方へ考えて、初音が泣き出すまで彼を傷付けた事にさえ気付かなかった。
そんな自分にすごく腹が立った。そんな自分を嫌いになりそうだった。 でも自分を嫌いになった分だけ、彼を思う気持ちが強くなっていた。


 俺は両手で初音を抱き寄せた。その細い肩は、小刻みに震えていた。
彼の温もりを感じると、すごくほっとした。それと同時に、どうしてすぐにこうしなかったのかと深く反省した。
もしかして彼は、ずっと泣くのを我慢していたのかもしれない。
皆と一緒に映画館へ向かう時も。スクリーンを見ないように目を閉じている間も。
たった1人で俺の家へ向かった時も。お母さんと一緒に焼肉を食べている間も。
「ごめん。俺が悪かったよ。明日は2人で映画を見に行こう。約束通り、一緒に映画を見に行こう」
カチッ、カチッ、カチッ……
淡々としたその音に耳を澄ますと、2人の時間が徐々に巻き戻されていった。
彼は以前にもこうして俺の胸で泣いた事があった。
今日はあの日によく似ていた。でも、決定的に違っている事が1つだけあった。
以前の彼は、竜二を思って泣いていた。でも今の彼はそうじゃなかった。
「今日は、家に泊まって。誠がそばにいてくれないと、一晩中泣いちゃいそうだよ」
しばらくすると、初音が涙声でそう言った。
彼は俺にきつくしがみついて、絶対に帰さないという意思表示をしていた。
初音の肩越しに、空色のカーテンが見えた。窓はすっかり覆い隠されていても、そこには晴天の空が広がっているかのようだった。
明日は、きっと晴れる。
明日の朝は彼と一緒にここを出て、2人で晴天の空の下を歩きたいと思った。