10.

 翌朝。僕らは少し寝坊した。
2人で朝寝坊できるのはお兄さんが休みの日だけの特権だった。
その朝先に目を覚ましたのは僕の方だ。
近くに彼の温もりを感じてゆっくり目を開けると、枕に頬を乗せてスースー眠るお兄さんの顔がすぐそばにあった。
その時、カーテンの向こうはかなり明るくなっていた。そして部屋の中は全体的にカーテンの緑色に染まっていた。
クーラーはずっと調子が良くて、部屋の中には涼しい風が舞っていた。
僕はお兄さんに寄りそってもう一度目を閉じた。
裸で抱き合うのが1番温かい。僕はお兄さんと知り合って初めてその事を知った。

 僕はその日、お兄さんの洋服を身につけて出かける事になった。
ティーシャツの首周りと肩幅は大きすぎたし、着丈も僕にはちょっと長すぎた。
でもジーパンの丈は何故か僕にぴったりで、お兄さんはその事にちょっと苦笑いをしていた。

 この日は初めて体験する事ばかりだった。僕はそのすべてがとても楽しかった。
お兄さんと一緒に電車に乗るのも初めてだったし、彼と2人で明るい空の下を歩くのも初めてだった。
電車を降りた後両側にひまわりの咲いている道を真っ直ぐに歩いて行くと、白いアーチ型をした遊園地のゲートが正面に見えてきた。
見上げた空は青くて、太陽の光が眩しかった。
遊園地のゲートをくぐると、そこには人が大勢いた。まだ世間は夏休みだったから、学生らしき人や親に手を引かれて歩く 小さな子供が多かった。
遊園地の中へ入った時、1番最初に見えてきたのは大きな噴水だった。 円い形をしたその噴水の周りには、やっぱり人が大勢いた。
そしてその円の真ん中からは空に向かって真っ直ぐに水が噴き出していた。 僕はその水のてっぺんに七色の虹を見つけて、なんだかすごく嬉しくなった。
「トモ、最初はどれに乗る?」
お兄さんは広い園内を遠目に見つめて僕にそう言った。
噴水の向こうには巨大な観覧車やジェットコースターなどがあり、右側に見える池にはボートがいくつも浮かんでいた。
「虹のすべり台に乗る」
そう言って水と重なる虹を指さすと、お兄さんはにっこり笑ってそっと目を伏せた。

 僕らはほとんど乗り物には乗らず、園内にあるゲームセンターへ行って対戦型ゲームをしたり、池の畔の木陰に座って ボートに乗る人たちを観察したりした。
その辺りには芝生の上を駆け回って遊ぶ子供たちがたくさんいて、周囲に笑い声が絶えなかった。
だけど僕らのすぐ後ろで大泣きする男の子がいて、お兄さんは半ズボンを履いたその子に涙の訳を優しく尋ねた。
まだ3歳ぐらいの彼は自分の思いをうまく言葉にできず、ただ大きな木の上を指差して泣いていた。
すると高い木の枝に水色の風船が引っかかっているのが見えて、僕らはそれが彼の涙の原因である事をすぐに悟った。
お兄さんは何度かジャンプして木の枝に飛びつこうとしたけど、お兄さんの大きな手はあとちょっとの所で風船に触れる 事ができなかった。
僕らは2人でどうするべきかを考え、結局お兄さんが僕を肩車して僕が木の枝に絡まった風船の糸をほどく事になった。
それはなかなか簡単にはいかなかったけど僕は時間をかけてなんとかその糸をほどき、やっとの思いで水色の風船を 男の子に返してあげる事ができた。
風船を受け取った彼はとっても嬉しそうに微笑み、僕らにバイバイと小さな手を振った後どこかへ駆けて行ってしまった。
その時は僕もお兄さんもすっかり汗だくになっていた。

 日が沈んでライトアップされた観覧車はすごく大きくて、下から見上げると首が痛くなってしまいそうだった。
それはちょうど池を囲むフェンスのすぐ横に位置していて、観覧車に乗る人たちはそのフェンスに沿って長い列を作っていた。
そして僕らはその列の最後尾に並んだ。 その列に加わる前にソフトクリームを1つだけ買って、それを交代で食べながら自分たちの乗る順番が来るのをのんびりと待っていた。
フェンスの向こうに見える池には、観覧車を包む赤やピンクの明かりが反射していた。夜の風は、少し涼しく感じられた。
池に映し出される明かりを見ていると、僕はまた未来に対する不安に包まれた。
動き回っている時はすっかりそんな感情を忘れているのに、少しでも退屈な時間がくるとすぐに不安に包まれてしまう。
もうすぐ彼と2人で念願の観覧車に乗れるのに、そこまでのインターバルが僕にとってはつらかった。
「おい、溶けてるぞ」
僕はお兄さんにそう言われ、ハッとして右手に持つソフトクリームを見つめた。
食べかけのソフトクリームは徐々に溶けてコーンの上を流れ落ち、もうすぐ僕の手まで辿り着きそうになっていた。

 僕はずっと憂鬱な気持ちで観覧車の乗車を待っていた。
でも自分たちがゴンドラに乗る順番になった時はやっぱり嬉しかった。 お兄さんと向かい合ってゴンドラの座席に座り、ドアがきっちり閉められた時には湿りがちな気分が少し回復していた。
狭くて静かなゴンドラの中には僕とお兄さんの2人きり。僕にはそれが1番嬉しかった。
「だんだん人が小さくなっていくよ」
ゴンドラが上昇するにつれて小さくなっていく人たちを窓から見下ろすと、お兄さんも僕の目線を追いかけた。
僕たちはしばらく黙って小さくなっていく人たちを見つめていた。でも、そのうちお兄さんが突然フッと小さく鼻で笑った。
「どうしたの?」
僕はお兄さんの目を見てその訳を尋ねた。すると彼は僕の手をそっと握り、ちょっと照れながらこんなふうに言った。
「今日はここでいろんな人を見たけど、やっぱりお前が1番カワイイな」
「……本当?」
「こんなに綺麗に産んでくれたママに感謝しろよ」
お兄さんにそう言われるととても複雑な気分になった。僕は自分を産んだママを責めたんだから。

 僕たちはもう外の景色は見なかった。
僕たちはただお互いを見つめ合っていた。僕は外の景色よりもずっとずっとお兄さんを見つめていたいと思っていた。
お兄さんは僕を1番カワイイと言ってくれたけど、僕にとってはお兄さんが1番かっこよかった。
僕は彼の日に焼けた肌にいつも憧れた。厚い胸板や、力強い腕にすごく憧れた。
重い物をすんなり持ち上げてしまう大きな手とか、ポロシャツのそでで汗を拭う仕草とか、そんなちょっとした事にいつもドキドキしていた。
僕はママに感謝する事なんかできなかった。でも、お兄さんにはすごく感謝していた。
ママは僕を本当に1人ぼっちにしてしまったけど、お兄さんは1人ぼっちの僕と2人きりでいてくれたから。
僕にはもうお兄さんしかいないと思っていた。もう絶対に1人ぼっちには戻りたくなかった。 これからもずっとずっとお兄さんと2人きりでいたいと思っていた。
「ねぇ……僕をお兄さんの所に置いてくれる?」
僕はそう言って彼の両手をぎゅっと握り締めた。
僕はその問いかけに彼が頷く事を知っていた。だからこそそんな事が言えたんだ。
お兄さんはすぐに頷く事はなかったけど、そのかわりに優しい笑顔で僕を見つめてくれていた。
「僕……学校を辞めるし、もう家にも帰れない。だからお兄さんに追い出されたら行く所がなくなっちゃうんだ」
彼はしばらく僕の言う事を黙って聞いてくれていた。 でもお兄さんはやがて肩を震わせて声もたてずに笑い出した。その震えは彼の手を通して僕の体にまで伝わってきた。
「……何がおかしいの?」
僕はその時、彼の態度に戸惑っていた。僕は真剣に話をしているのに、お兄さんがどうして笑うのか全然理解できなかった。
でも、その後お兄さんは終始笑顔を絶やさなかった。
「お前、ママが本当に退学届けを出すと思ってるのか?」
「だってママはそう言ったよ」
「そんなわけないだろう? お前のママは絶対にそんな事はしないよ」
そう言われても、僕は彼の言葉を信じられなかった。でも、信じられる人が彼以外にいない事も事実だった。

 僕はそれまでお兄さんの事を何も知らなかった。でもその後すぐに彼の過去を知る事になった。
お兄さんはちょっと伏し目がちにいろいろな事を話してくれた。
「俺さ、高校2年の時に退学くらったんだ」
「え?」
「俺、その頃付き合ってた女がいたんだ。その女をバイクのケツに乗せて事故って……その事が原因で学校をクビになったんだよ」
お兄さんはそれを話す時、穏やかに微笑んでいた。でも彼の笑顔が本物じゃない事は僕にもすぐに分かった。
でも彼の声は至って冷静で、そこからはなんの感情も読み取れなかった。
「女は今のお前と同じ16歳だった。事故った時俺は奇跡的に無傷だったけど……女は両足と利き腕の骨が折れて、額に大きな傷を負ったんだ。結構カワイイ顔してたのに、申し訳ない事をしたと思ってるよ」
お兄さんはそう言って一瞬窓の外を見つめた。その横顔はちょっと淋しげだった。
僕はその時すごく胸がドキドキしていた。それはお兄さんが傷ついている事を感じ取ったからだった。
僕は力をなくした彼の手を強く握った。僕が彼にしてあげられる事はそれぐらいしかなかったからだ。
お兄さんはそれからすぐに僕を見つめてくれた。彼はその時、やっぱり穏やかに微笑んでいた。
「お前のママが怒るのは当たり前さ。でもママを怒らせたのは俺だ。お前は何も悪くないよ」
「そんな事ないよ」
「俺……あいつの家に謝りに行ったんだ。その時、玄関に入った途端向こうのオヤジにこう言われた。 16歳の娘をこんな目に遭わせるなんて犯罪だ、ってさ。その時は何も言い返せなかったよ。俺はあの時から犯罪者なんだ。 だから、これからはもう二度と人に迷惑をかけずに生きていこうと思ってた。 でも……結局同じ事の繰り返しだ。お前のママの目から見れば、16歳の息子に手を出した俺はやっぱり犯罪者だと思う。 お前を好きになった時から……いつかこうなるような気がしてたよ」
僕はその時、何か言わなければいけないと思っていた。だけど何を言ったらいいのか分からなかった。
そして彼に言うべき言葉を考え付かないうちに、お兄さんの方からまた話が続けられた。
「お前、学校を辞めるなんて簡単に言うなよ。一時の感情でそんな事をしたら絶対後悔するぞ。 今は夏休みだからいいけど、そのうち学生服を着てる奴らが羨ましく見えてくるんだ。 その時になって初めて自分のやった事の重大さに気付くのさ。俺はお前にそんな思いをさせたくないんだよ」
「お兄さん……もしかして、その事で家を出たの?」
「そうさ。親には散々迷惑かけたから、もう家にはいられなかったんだよ」

 僕は風船を失って大泣きする子供と同じだった。
こんな時気の利いた言葉も言えず、ただ泣く事しかできなかった。
いつも元気なお兄さんがこんな悲しみを背負って生きているなんて今まで知らなかった。 僕との事で彼が自分を責めているなんて、全然知りもしなかった。
重なり合った両手に僕の涙が降り注がれた。お兄さんは僕の隣へ移動し、たくましい両腕で僕を抱きしめてくれた。
彼の胸に顔を埋めると、乾いたポロシャツが湿っていく感触がはっきりと肌に感じられた。
「トモ、これからママに会いに行こう。いつまでもこのままじゃいられないだろう?」
お兄さんの声が僕の耳にそう囁いた。でも僕はママに会うのが怖かった。
ママの口からはっきり出て行けと言われるのが怖かったし、ママがお兄さんにひどい事を言ってしまいそうな気がしてすごく怖かった。
「お前、ずっといい子だったんだな。ママとこんなふうに喧嘩するのは初めてなんだろう?」
「僕はいい子なんかじゃない。僕はママを傷つけた」
「俺なんて、母ちゃんにクソババーとかオニババーとか何回言ったか分かんねぇよ」
「……」
「とにかく、ママはお前を退学させたりしないから安心しろ。 俺は母ちゃんに何度も殺してやるって言われたけど、今もこうしてピンピンしてるぞ」
「でも……」
「大丈夫だよ。俺は親子喧嘩のプロだぜ。俺がママと話すから、後の事は全部俺に任せろ」
「……」
「2人で力を合わせればちゃんと風船を取り戻す事ができただろう?」

 たしかに、僕らは力を合わせて水色の風船を取り戻した。でも僕は……本当は泣いている子供の方だった。
ゴンドラの揺れが心地よかった。お兄さんの胸が心地よかった。
その時の僕は、お兄さんが風船を取り戻してくれると信じて待っている子供にすぎなかった。