9.

 日が沈んで、部屋の窓には緑色のカーテンが引かれた。
ちゃぶ台を挟んで座る僕たち。そして、ちゃぶ台の上にはカレーの乗ったお皿が2つ。
そのうち1つはすぐに空っぽになった。お兄さんは僕が作ったカレーを3分ぐらいで全部たいらげてしまったんだ。
でも……僕は食が進まなかった。その訳は、自分の作ったカレーがあまりにもまずかったからだ。
じゃがいもは硬いし、味は辛いというより酸っぱいし、それはまるで腐りかけのカレーの味だった。
部屋の中に充満するカレーの香りが、なんだかとてもつらかった。
僕はほんの二口ぐらいでそれを食べるのを諦めた。でもお兄さんは僕が残したカレーを見つめ、その皿をすぐに手に取った。
「食わないならもらうぞ」
お兄さんはそう言って再びスプーンを持ち、二皿目のカレーをどんどん口に入れていった。
彼はとてもおいしそうにそれを頬張っていた。でも、お兄さんがかなり無理をしている事は僕の舌が1番よく知っていた。
僕はあまりにもつらくて、スプーンをもつ彼の手を正面から掴んだ。
「お兄さん、もうやめて」
「どうして? 俺腹減ってるんだよ」
「無理しないで。おいしくないでしょう?」
「そんな事ないよ」
彼は僕の手を振りきり、二皿目のカレーをあっという間に食べてしまった。そしてちゃぶ台の上には空になった2枚のお皿が重ねられた。
「あぁ、おいしかった。でもちょっと食いすぎたかな」
お兄さんはそう言っていつものようににっこり笑った。白い歯を見せて。嫌な顔一つせずに。
お兄さんの優しさが痛かった。そして不出来な自分に嫌気が差していた。その時は本当にすごく嫌な気分だった。
舌に残る酸っぱい記憶が消えるまで、僕の気分はとても回復しそうになかった。

 その後僕たちはお風呂へ行くために部屋を出た。
その時外はもう真っ暗になっていた。でもまだまだ気温が高くて、外へ出ると生温かい空気が僕らを包み込んだ。
お兄さんがいつもの自転車にまたがると、夜の闇に隠れていた黒猫が僕らの足元を素早く走り抜けて行った。
「竹の湯までドライブだ。乗れよ」
僕はお兄さんにそう言われ、沈んだ気持ちのまま自転車の荷台に乗った。
僕はお兄さんの背中にしがみついて自転車に揺られるのがとても好きだった。 でもその時は短いドライブを楽しむ元気さえなくしていた。
お兄さんのポロシャツはたっぷり汗を吸っていて、背中に頬を寄せると湿った衣類の感触がはっきりと僕の肌に伝わった。

 カレー作りを失敗した事は、その時の僕にとって大問題だった。
お兄さんが僕にくれたしわくちゃな千円札。僕はそのお金を無駄にしてしまった事にすごく心を痛めていた。
慣れない料理なんかするものじゃないと思った。
4時間もの時を費やしてあんなまずい物を作った僕は、時間もお金も全部無駄にしてしまったような気分だった。
僕はゆっくり走る自転車に揺られながら過ぎ行く景色を見つめていた。
長く続く塀の前を通り過ぎ、誰かの家の門灯が見え、その淡い光が涙で滲んだ時、お兄さんが前を向いたまま大きな声で僕を呼んだ。
「トモ!」
「……何?」
「明日仕事が休みだからどこか行こうぜ! お前、どこ行きたい?」
お兄さんはとっても元気な声で僕を誘ってくれた。彼は僕がダメになりそうな時、いつもこうして助けてくれた。
僕はその時、家を出て以来初めてママの事を考えていた。
僕は今までに何度もママを傷つけた。僕はママの料理にいつも文句を言ったし、ちょっとしたママの仕草にイライラして不機嫌になったりもした。
僕は自分を 1人ぼっちにしたママを責めたけど、ママはこんな僕に嫌気が差していたのかもしれない。 ママが家出をしたのはもしかして僕のせいだったのかもしれない。
でもお兄さんはきっと……僕と違ってママの料理をまずいと言ったりなんかしない。 彼はママが何か失敗をしても、絶対に責めたり怒ったりもしないだろう。
お兄さんは僕にない物をいっぱい持っていた。たくましい腕と日に焼けた肌と、誰にも負けない優しさがそれだった。
僕は今こそ彼の良さをママに分かってもらいたいと思っていた。 僕がお兄さんをどうして好きになったのか……それをちゃんと分かってもらいたいと強く思っていた。
でも……もうすべてが遅すぎるんだ。

 「なぁ、どこ行きたい?」
お兄さんが前を向いたままもう一度僕にそう言った。
その時、頬がすごく熱かった。それは決して外の気温のせいではなく、お兄さんの優しさのせいだった。
「最初のデートは遊園地がいい。観覧車の中で……キスしたい」
僕は彼の背中に返事をした後、涙を堪えてお兄さんの腰に両手を回した。
ずっと考えないようにしていた事が全部頭の中に浮かんで、突然ひどい不安に襲われた。
いつも心地よかったはずの自転車の揺れが、その時だけはすごく悲しく感じられた。
僕はママの言う事を聞かずに家を飛び出してしまった。ママはもう僕の退学届けを学校に提出してしまったに違いない。 僕はきっと、もう二度と家には入れてもらえない。
ママに見捨てられた僕は……この先どうやって生きていけばいいんだろう。