11.
僕らはその後、2人でママに会いに行った。
電車を乗り継ぎ、最後はいつもの自転車に乗ってママのいる家へ真っ直ぐに向かった。
もう見慣れているはずの景色がやけに懐かしく感じた。家の近所のコンビニやパチンコ屋のネオンが、以前よりずっと輝いて見えた。
家へ向かう最後の坂道を上る時、前傾姿勢でペダルを踏むお兄さんは首筋に汗をかいていた。
それでも彼は一生懸命にペダルを踏み続け、少しずつ少しずつ僕の家に近づいていった。
「お兄さん、大丈夫? もう疲れた?」
僕は彼の背中に声をかけた。するとお兄さんは息も絶え絶えになんとか返事をしてくれた。
「きっと……帰りは楽だよ」
帰りは楽だとお兄さんは言った。でも、本当にそうだろうか。僕らはこの坂道を引き返す時、本当に楽な気持ちでいられるだろうか。
僕は自転車が前へ進むたびに少しずつ緊張してきた。
話し合いはちゃんとうまくいくんだろうか。
僕はこれからもお兄さんと一緒にいられるんだろうか。
新学期からまた今までのように学校へ通う事ができるんだろうか。
ノロノロと坂道を上る自転車に揺られて空を見上げると、たくさんの星が頭上に輝いているのが分かった。
僕はぼんやりとその星空を見つめ、自転車の揺れに身を任せていた。
午後10時。懐かしいマンションの前に辿り着くと、僕の緊張は頂点に達した。
お兄さんはその日、マンションの入口前にある水のオブジェの横に自転車を止めた。
いつもは自転車も一緒にエレベーターに乗せて上まで行くけど、その日の彼はそうしなかった。
お兄さんの手は僕の頼りない手をきつく握り締めてくれた。
「トモ、この手を絶対離すなよ」
彼は真剣な目で僕を見つめ、たった一言だけそう言った。そんな僕らを見守ってくれたのは、空に輝く星たちだった。
僕らはしっかりと手を繋いでママの所へ向かった。
その時僕の目には、2人の手を繋ぐ運命の赤い糸がちゃんと見えていた。
僕の家の玄関の前に立ってお兄さんがインターフォンを押すと、ママはわりとあっさりドアを開けてくれた。
その時ママはピンク色のパジャマを着ていた。そしてママの頬もパジャマと同じピンク色だった。
ママはたった1人でお酒を飲んでいたに違いなかった。
「お話したい事があるんです。少しお時間をいただけませんか?」
僕はお兄さんの落ち着いた口調にドキドキしていた。
その時僕は緊張してもう逃げ出したいと思っていたのに、僕のお兄さんはとても頼もしかった。
ママはニコリともせずにお兄さんを見つめ、それからチラッと僕に視線を向けた。
その後ママはしっかりと繋がれた僕たちの手を長々と見つめていた。
「どうぞ」
ママは力なくそう言って僕らを家へ招き入れた。
玄関の大理石の床や下駄箱の上に乗せられたツボを見た時には、やっぱり少し懐かしく思った。
真っ直ぐにリビングへ行くと、ママは慌ててビールの空缶をサッと片付けた。
その時は花柄のソファーやプラズマテレビが僕にお帰り、と言ってくれているような気がした。
そして僕とお兄さんはママと向かい合って座った。
お兄さんの横顔はキリッとしていてとても素敵だった。
ママは怒るわけでもなく、そして笑うわけでもなく、ただぼんやりと凛々しいお兄さんの顔を見つめていた。
お兄さんは一度も俯く事なくママと向き合っていた。
クーラーの風がひんやりしていて、部屋の中は少し肌寒いぐらいだった。
「先日はお見苦しい所をお見せして申し訳ありませんでした。でも俺は本気でこいつが好きです。それだけは分かってください」
お兄さんの最初の一言はそれだった。僕は彼の率直な気持ちをこんな形で聞けてすごく嬉しかった。
その後お兄さんは僕の気持ちを代弁してくれた。
僕は今まで自分の胸の内をはっきり彼に話した事はなかったけど、お兄さんは何も言わなくても僕の思いを分かってくれているようだった。
僕が今まで通り家族3人でここで暮らしたいと思っている事。
そしてここから今まで通り学校へ通いたいと思っている事。
それに、何よりも大事なのは……僕たちがもう離れられないという事。
お兄さんの口からそういう事が全部語られた時、僕はもうお腹がいっぱいになっていた。
こんなふうに思うのは少し変かもしれないけど、もしもママが本当にパパと別れて遠くへ行ってしまうなら、僕は学校を辞めてお兄さんの所へ嫁ぎたいと思っていた。
お兄さんのために掃除や洗濯をして、毎日彼の帰りを待つ暮らしがしたいと本気で思った。
そして驚いた事に、彼は僕がそう思っている事をちゃんと分かってくれていた。
彼が最後に言った事は、そう思わざるを得ないような発言だった。
「トモはここを離れたくないと思っています。事情があってどうしてもそれが無理なら、俺がトモをもらっていきます。
でも、本当はトモはお母さんと一緒にいるのが1番いいと思っています。
お母さん、今まで通りトモと一緒にここで暮らす事はできませんか?」
ママは彼の言葉が耳に入っているのかどうか分からないほど虚ろな目つきでずっとお兄さんを見つめていた。
ママは彼が何を言っても一言も話そうとはしなかった。
お兄さんの言葉は、最初から最後まで一方通行だった。
その後、広いリビングの中に長い沈黙が流れた。
その時僕はもうこの家に戻ってこられない事を覚悟していた。
でも僕はお兄さんの温かい言葉がいっぱい聞けたから、ただそれだけで満足していた。
僕は懐かしいリビングの中をグルッと見回した。
花柄のソファーや、フローリングの床。微弱な音を放つクーラー。そしてプラズマテレビ。
そのどれを見てもお兄さんの事が頭に浮かんだ。
僕はここに1人でいる時、いつもお兄さんの事を考えていた。
花柄のソファーに寝転がって彼を思い、フローリングの床の上を歩いて彼を思い、涼しいクーラーの風を浴びながらお兄さんの事をいつも考えていた。
でも……それももうお終いだ。
僕が諦めた後もお兄さんは根気強くママのいい返事を待っていた。
でもママは最後まで彼の言葉に答えなかった。
クーラーの風に揺れるママの金色の髪とピンク色の頬。僕はそれを決して忘れないようにしようと思っていた。
「……分かりました。トモは俺がもらっていきます」
やがてお兄さんが最後の一言を口にした。
僕はその時小さなママの手を見つめ、その手の代わりにお兄さんの手をぎゅっと強く握り締めていた。
「じゃあ……行くか」
お兄さんが笑顔で僕にそう言った。僕は彼の言葉に小さく頷き、すぐに椅子から立ち上がろうとした。
ママがやっと言葉を発したのはその時の事だった。
「待って」
その時ママの目はお兄さんではなく僕を見つめていた。
ママは僕の姿を上から下までじっくりと見つめて静かにこう言った。
「着替えぐらい持って行ったら? その洋服、サイズが合ってないわよ」
僕はママにそう言われ、改めて自分の姿を見直した。
お兄さんのティーシャツは首周りも肩幅も随分大きかった。ジーパンの丈は僕にぴったりだったけど、腰周りはやっぱり大きすぎた。
僕はその時、お兄さんの顔をチラッと見つめた。すると彼は優しい目をして1つ頷いた。
そしてお兄さんの手が僕の手を離れた。
僕はその後リビングに背を向け、荷造りをするために自分の部屋へ向かったのだった。