4.

 頬に感じるのは大好きなお兄さんの温もり。
鼻に感じるのは大好きなお兄さんの香り。
瞼の向こうに感じるのは眩しい朝の光。
そして耳に響くのは聞き慣れた声。
「トモ、起きて」
その声は、遠く聞こえた。
僕は瞼の向こうが眩しくて頭に布団をかぶった。 でもその次の瞬間、ものすごい勢いでその布団を取り上げられてしまった。
「トモ、起きなさい!」
その声は、すごく近くで聞こえた。
僕は眩しい朝の光に目を細めながらゆっくりとその声の主へ顔を向けた。そしてその人の顔を見た瞬間、心臓が止まりそうになった。
「ママ !?」
僕はあまりに驚いてすぐベッドの上へ起き上がった。
今見ている光景が全部夢であってほしい……そう思ったけど、ベッドの脇に立っている金髪の女性は間違いなくママだった。
ママは眉間にシワを寄せて腰に両手を当て、刺すような目つきで僕を睨みつけていた。
ママの髪はすごく長かったのに、いきなりショートカットになっていてびっくりした。
その時僕はすっ裸でベッドの上に正座していた。
そして寝起きの悪いお兄さんは僕の横にうつ伏せになってスヤスヤと眠っていた。お兄さんの引き締まったお尻は、朝日が当たって白く光っていた。
ベッドの下にはローションのビンと僕らの脱ぎ捨てた洋服があっちこっちへ散乱していた。 ママの足は……お兄さんのパンツを踏んづけていた。

 「おい……お前、大丈夫か?」
お兄さんがティーシャツをかぶりながら小声で僕にそう言った。僕らはその時、満足に話をする時間さえなかった。
「平気。今日も仕事がんばってね」
僕らの別れは、目が覚めてから2分後にやってきた。
お兄さんはママの存在に気づくと僕と同じようにすぐ飛び起きた。 そして床の上に散乱する洋服を拾い集め、裸のまま前を隠して玄関へ避難したのだった。
お兄さんは大理石の床の上に立って洋服を全部身に着けた。彼の瞼は腫れていて、短い髪にはひどい寝癖が付いていた。
「ごめんね、こんな事になっちゃって」
僕はお兄さんにすごく申し訳ないと思っていた。
今朝は一緒に朝食を食べてから2人でシャワーを浴びてちゃんと彼を送り出してあげようと思っていたのに、寝坊した挙げ句に突然のママの出現で予定が随分狂ってしまった。
「トモ、俺にできる事があったらなんでも言うんだぞ」
お兄さんが僕の両手を握り締め、すごく心配そうな目をしてそう言ってくれた。僕はもうすぐ行ってしまうお兄さんの目をじっと見上げていた。
大理石の床の上に立つと、足の裏が少し冷たく感じた。
「お兄さんにできる事は、ちゃんとあるよ」
「なんだ? 言ってみろ」
彼はどんな時でも優しかった。 もうそろそろ行かないと仕事に遅れるのに、こんな時でさえすごく優しくしてくれた。
「僕のこの手を……絶対に離さないで」
「……分かった」
お兄さんは大きく頷いて僕の両手を今まで以上に強く握ってくれた。その時彼は軽く微笑んでいた。
「愛してるよ、お兄さん」
「おぅ」
「行ってらっしゃい」
僕が彼にお別れのキスをすると、お兄さんの手が僕の手を離れた。
僕は自転車を押して廊下へ出て行く彼を不安な気持ちで見送った。

 裸のままリビングへ行くと、ソファーに腰かけたママが僕にガウンを投げて寄こした。 ママの眉間のシワは、さっきよりもずっと深く刻まれていた。
「みっともないから早く着なさい!」
僕は床に落ちた白いガウンを拾い上げ、黙ってそれを身に着けた。フローリングの床は、朝日が当たってポカポカしていた。
ソファーの横には大きなスーツケースが置いたままになっていた。ママはついさっきアメリカから戻ったばかりのようだった。
「トモ、座りなさい」
僕はきつい口調でそう言われ、しかたなくママの向かい側の椅子に腰かけた。 すると、一瞬身を乗り出したママの平手打ちが僕の頬に飛んできた。
ママの手が僕の頬を打つバシンという音が、静かな部屋の中に大きくこだました。
「あんた、いったい何やってるのよ? あの男は誰なの? 2人でいったい何をしてたの?」
僕はぶたれた頬を右手で押さえて涙を堪えた。
僕は何も悪い事なんかしていない。それは分かっていたけど、ここで泣いたら自分の非を認めてしまう事になる。
「でも……これで本当に決心が付いた。ママはパパと離婚してアメリカへ行くわ。あんたも夏休みが終わったら一緒に来るのよ。 分かったわね?」
ママはソファーに身を沈め、すごく落ち着いた声でそう言った。
顎のラインで切り落とされた金色の髪は、ママの決意を表しているかのようだった。
「そろそろ荷造りを始めなきゃね。あんたの転入手続きもしなくちゃいけないし、これから忙しくなりそうだわ」
僕の目と同じ色をしたママの目が僕を真っ直ぐに見つめていた。ママはその時、いつかパパにプレゼントされた黒いティーシャツを身に着けていた。
「……嫌だ。僕は行かない」
絶対泣いてはいけないと思ったのに、そう言った途端に僕の目から涙が零れ落ちた。僕はその事が死ぬほど悔しかった。
「トモはまだ子供なんだから、あんたの進路はママが決めるわ。親としてあんたをここへ置いておく事はもう絶対にできない。 あんな現場を見せられてママがどれほど傷ついたか分かってる? だいたいあんな男の相手をするなんて、どうかしてるわよ」
「お兄さんの事、悪く言わないで!」
「あんたね、まともな人があんな事をすると思ってるの? もう二度とあの人に関わるんじゃないわよ。分かった?」
「分からない!」
僕が泣き叫ぶと、頬にもう一度ママの平手打ちが飛んできた。
僕は泣いてしまった自分がすごく悔しかったけど、お兄さんを悪く言われた事がもっと悔しかった。

 ママにぶたれた頬がジンジンと痛んだ。でも僕は何度ぶたれてもママの言う事に納得がいかなかった。
その時、テーブルの上には赤い表紙のアルバムが置いたままになっていた。 僕はその真っ赤な色を見つめ、ずっと心に秘めていた思いを爆発させた。
「別れるぐらいならどうしてパパと結婚したの? どうして僕を産んだりしたの? 僕は小さい頃ママのせいですごくいじめられたんだよ。 僕だけ皆と違う髪の色をしてたから……僕だけ真っ白な肌をしてたから……その事ですごくいじめられたんだよ!」
泣きながらママを見つめると、その顔がすごく悲しげで胸が痛くなった。
こんな事は絶対に言っちゃいけないって分かってた。だけど……僕はもうすべての事に嫌気が差していた。 僕はママを傷つけたけど、僕だってママに傷ついていたんだ。
ソファーは花柄。アルバムの表紙は赤。部屋に物をごちゃごちゃ置かないのはママのセンス。
僕はこの家に1人でいる間、そういう物でここにいないママの存在を感じ取るしかなかった。
その感情はとても言葉にはできないものだった。 淋しさという言葉で表現するにはあまりにも安っぽいような……ものすごく悲愴な感情だった。
僕はすごく気持ちが高ぶっていて、ママが悲しそうにしていても自分の感情をうまく操る事ができなかった。
「トモはそんな事一度もママに言ってくれなかったじゃない」
「言ったらママが傷つくと思ったからだよ! だからずっと黙ってたんだよ!」
「……」
「ママはずるいよ。僕を1人にして行ったくせに。僕はママが出て行った後ずっと1人で心細かったんだよ。 ママはいいよね。実家に帰ればお祖父ちゃんとお祖母ちゃんが温かく迎えてくれるんだから。 でも僕はその間ずっと1人だったんだよ。ずっと1人ぼっちでここにいたんだよ。 そんな時……お兄さんだけは僕と一緒にいてくれたんだ。お兄さんだけは僕の肌が綺麗だって褒めてくれたんだ」
ママの言い訳。それは僕が耳を塞ぎたくなるようなものだった。
「パパが出張へ行くとは思わなかったのよ」
「パパのせいにするなよ! ママは僕を連れて家を出る事ができたはずでしょう? でもそうしなかったのはママでしょう? それなのに……突然帰ってきて今度は嫌がる僕を強引に連れて行くっていうの? そんなの勝手だよ! わがまますぎるよ!」
涙のカーテンがママの顔をぼやけて見せる。僕が泣いたのはきっと……悲しげなママを直視しないための術だった。
僕はもうすべての事に嫌気が差していた。だけど、本当は自分に1番嫌気が差していた。
僕はママにひどい事を言ってしまった。ママをすごく悲しませてしまった。
大好きなお兄さんと一緒に迎えた朝に。やっとママが戻ってきてくれた大事な朝に。

 僕は自分に耐えられず席を立った。そしてすぐに家を飛び出すつもりでいた。
だけど……それを察したママの声が早速僕の背中に浴びせられた。
「ここを出て行くならそれでも構わないわ。その代わり、もう二度と戻ってこない覚悟をしなさい。 あんたがこの家を一歩でも出たら、ママはすぐにあんたの学校へ退学届けを出すわよ。 ママの言う事が聞けないなら、学校を辞めて働いて1人で生きていけばいいわ。 でもそれが嫌なら、おとなしくママの目の届く所にいなさい。もうどこへも行かずに、ずっとここにいなさい」
眩しい朝日が目に沁みて、頭がクラクラした。
僕の手に握られた赤い糸は……もうすぐ切れてしまいそうな予感がした。