5.

 僕はそれから2日間ずっと自分の部屋に潜伏していた。ママの作った食事を放棄する事が僕にできるささやかな抵抗だった。
ベッドに横になって枕に顔を埋めると、お兄さんの残り香が僕を熱くさせた。 でも僕の涙で枕が濡れると、その香りが少しずつ薄らいでいった。
空腹よりもっと辛いのは、お兄さんに会えない事だった。
少しずつ少しずつ彼に近づいてやっと愛し合う事ができたのに、僕らの距離は遠のくばかりだった。
気が付くとカーテンの向こうが暗くなっていた。僕は部屋の中が薄暗くなった事を知り、照明用のリモコンを操作して明かりを灯した。
ベッドの脇の目覚まし時計は午後7時を示していた。2日前のこの時間、僕はお兄さんを待ってリビングの中をウロウロしていた。
あの時はすごく胸がドキドキしていた。本当にお兄さんが来てくれるかどうか半信半疑で、とても不安だった。
僕は今、彼の温もりが恋しくてたまらない。
もう一度お兄さんのたくましい腕に抱かれたい。痛みを堪えて彼と愛し合いたい。

 静かに部屋を抜け出してリビングの中をそっと覗くと、そこにママの姿はなかった。
明るいリビングはテレビの音もせず、すごく静かだった。ふとテーブルの上に目をやると、そこにはビールの空缶が2つ並べて置いてあった。
よく耳を澄ますと、遠くの方でシャワーの音がした。どうやらママは入浴中のようだ。
僕はふとある事を思い立ち、テレビの横にある重たい電話帳を手に取った。そしてそれを抱えてすぐに自分の部屋へ戻った。
僕はベッドの端に腰かけ、電話帳を開いて 『竹の湯』 の電話番号を調べようとしていた。
僕の膝の上には滅多に鳴らない携帯電話が置いてあった。僕はそれを使って今すぐお兄さんの声が聞きたかった。
でもお兄さんが携帯電話を持っている気配はなかったし、彼の部屋にも電話らしき物は見当たらなかった。
改めて考えると、お兄さんの事を何も知らない自分に気付いた。
僕は彼の勤め先も知らないし、実家のある場所も知らない。ただ唯一僕が知っているのは、彼が毎晩 『竹の湯』 へ立ち寄るという事だけだった。
「あった!」
『竹の湯』 の電話番号は、調べるとすぐに分かった。
その時、目覚まし時計の針は午後7時10分を差していた。
今 『竹の湯』 へ電話をすれば……うまくいけば今夜のうちにお兄さんの声が聞けるかもしれない。
僕はその後すぐに携帯電話を手にとって今見つけたばかりの電話番号をプッシュした。すると呼び出し音が5回鳴った後、電話は繋がった。
電話に出たのは、のんびりと喋る男の人だった。 それはいつも 『竹の湯』 の番台に座っている白髪頭のおじいさんに違いなかった。その時、電話の向こうは少しザワザワしていた。
「はいーもしもし、竹の湯ですが」
「あの……今、本宮大輔さんはそちらに行ってますか?」
僕はとりあえずお兄さんがそこにいるかどうかを聞いてみた。
するとおじいさんは電話を保留にする事もなく大きな声ですぐに彼の名を叫んだ。 恐らくその電話はお風呂場のすぐ近くにあるのだろう。
ヤキモキしながら部屋の白い壁を見つめると、そこにまた一匹の小さな虫が張り付いているのを発見した。 僕はその小さな黒点を見つめた時、2日前彼を待っていた時の事を思い出して胸が苦しくなった。
その時見た小さな命は、お兄さんを待っている時に見つけた命と同じものだったんだろうか。

 僕は携帯電話を手に持ったままじっと待ち続けた。 そしてしばらくたつと、さっきと同じ声の人がもう一度電話に出た。
「そういう人は来てないみたいだね」
そう言われて僕は少し落胆した。でもまだ決して望みを捨てたわけではなかった。僕は気を取り直して、次の手を打った。
「じゃあ……その人が来たら伝言をお願いします。これから電話番号を言いますから、そこに電話をかけてくれるように伝えてほしいんです」
「そう言われてもねぇ……いちいちお客さんの名前を聞くわけにはいかないからねぇ」
おじいさんの声は相変わらずのんびりしていたけど、彼が遠まわしに僕の申し出を断わろうとしている事はすぐに分かった。
でも僕はどうしても諦め切れなかった。僕はママとの今の状況を打破したいと思っていたけど、そのためにどうしたらいいかをお兄さんに相談したかった。そしてこんなに大切な事を相談できる人はお兄さん以外に思い当たらなかったんだ。
僕は見えない相手に向かって必死に語りかけた。僕はその時、どうしても今夜中にお兄さんと話したいと思っていた。
「あの……僕が言ってるのはいつも7時か8時頃に来る若いお兄さんです。体ががっちりしていて、よく日焼けしていて、目が小さい人です」
「はぁ?」
「えっと、お兄さんはいつも自転車に乗ってきます。お風呂を上がるのはわりと早いです」
「……」
僕らの間に一瞬沈黙が流れた時、さっきまで壁に張り付いていた小さな命が突然僕の視界から消えてしまった。 僕はその途端に何故だかすごく悲しくなってしまった。
「おじいさんお願い。僕どうしてもお兄さんと話がしたいんだ。僕が言ってるお兄さんは毎晩そこへ来る素敵な人だよ。 竹の湯のお客さんの中で1番かっこいいのが僕のお兄さんだよ」
僕はきっと、『竹の湯』 のおじいさんをすごく困らせた。こんな訳の分からない事を泣きながら訴えるだなんて、迷惑極まりない。
僕はとりあえずおじいさんに携帯電話の番号を伝えようとした。するとその時、奇跡が起こった。 僕らの赤い糸は、細いながらもきっとまだ繋がっていたんだ。
「じいさん、金置いとくぞ」
電話の向こうでガラガラと戸の開く音がした後、ザワめく周囲の音に僕の1番聞きたかった声が重なった。
その声を聞いた瞬間、ベッドの上に広げた電話帳の上に涙の雨が降り注がれた。

 「今来た人と電話を変わって」
僕はおじいさんにそう言った後、呼吸が苦しくてほとんど喋れなくなってしまった。
耳のすぐそばで1番聞きたかった声が響いても、思うように話をする事ができなかった。
「トモ? お前なのか?」
大きな声で叫ぶお兄さんの心配顔が頭に浮かび、ますます呼吸が苦しくなった。お兄さんの声はすぐ近くで聞こえるのに……僕らの距離は遠かった。
「泣いてるのか? おい、返事をしてくれ」
僕はお兄さんに、たった一言しか伝える事ができなかった。
「お兄さん……会いたいよ」
「だったらどうして来てくれないんだ。今すぐ会いに来いよ」
お兄さんの声が耳元でそう言った時、急に何かが吹っ切れた。
彼の言葉はストレートで、とてもシンプルだった。そしてこれ以上ないほどに簡潔だった。
僕は今どうして1人で泣いているんだろう。どうして会いたい人にすぐ会いに行かないんだろう……

 僕は電話を切った後すぐに立ち上がり、2つ3つ必要と思われる物だけをポケットに詰め込んだ。
その時、明るい部屋の中はひどく散らかっていた。
布団の上には僕が座ったお尻の跡がついていたし、机の上には暇つぶしに目を通した国語の教科書が開かれたまま置いてあった。 そしてクーラーはつけっ放しで、履き捨てた靴下がベッドの下に転がっていた。
僕は、そのすべてに背を向けた。
もう迷わず部屋を後にして駆け出した時、僕の頭にはお兄さんの事以外何も浮かばなくなっていた。
バスルームの前を横切ると、まだ微かにシャワーの音が聞こえてきた。でも、もうそんな事はどうでもよかった。
履き慣れた靴を履いて、大理石の床を蹴って、カチャッと鍵を開けて、僕は外へ飛び出した。
ママにサヨナラも言わず、着替えも持たず、一度も振り向かず、ただお兄さんへ向かって真っ直ぐに走り出した。