6.

 ドンドンドン。
僕はお兄さんの部屋の前に立ち、薄っぺらいドアを3回拳で叩いた。
さっきまで僕とお兄さんの距離はすごく遠かった。でも今はドア1枚へだてた向こうにお兄さんがいる。
その時、アパートの廊下は真っ暗だった。でもお兄さんが部屋の中からドアを開けてくれた時、廊下も僕も明るい光で照らされた。
僕のお兄さんは上半身が裸で、下もパンツしか身に着けていなかった。
ほどよく筋肉の付いた胸に飛び込むと、頬が彼の肌に直接触れてすごくほっとした。
お兄さんは僕を両手で包み込み、お帰り、と小さく言ってくれた。だから僕も ただいま、と返事をした。

 僕はその時もう泣いてはいなかった。窓を背にして畳の上に腰かけると、すごく気持ちが落ち着いた。
僕の正面には電源の入っていないテレビが置かれていて、ブラウン管には並んで座る僕とお兄さんの姿がはっきりと映し出されていた。
部屋の空気はなんとなく暖かかった。その時僕はそれが僕らの愛のせいだと本気で思っていた。
「ごめんな。今日クーラーの調子が悪くてあまり涼しい風が出ないんだよ」
お兄さんはそう言って僕にうちわを手渡した。それはキャバクラの宣伝文句が書かれたピンク色のうちわだった。
僕がお兄さんの頬にキスをすると、彼の耳がうちわと同じピンク色に変わった。 そして見る見るうちにそのピンク色は真っ赤な色へと変化していった。
「なんか……暑いなぁ」
お兄さんはそう言いながらものすごい勢いでうちわを扇いだ。
彼の前髪はその風圧で立ち上がり、そして後ろのカーテンまでもが微かに揺れた。
僕はやっぱりお兄さんと一緒にいるのが楽しかった。
1人で悶々としていた時はもう二度と笑えないんじゃないかと思っていたのに、その時すでに僕の頬の筋肉は緩みっぱなしだった。
お兄さんはそんな僕を横目で見つめ、うちわを扇ぐ手をピタッと止めた。 そして僕の頬の肉をぎゅっと掴み、白い歯を見せてにっこり微笑んだ。
「お前は笑ってる方がカワイイぞ」
お兄さんはそう言った後またすごい勢いでうちわを扇ぎ始めた。

 僕がお兄さんの左手を掴むと、彼は僕の手をぎゅっと握ってくれた。僕らは擦り切れた畳の上でしっかりと両手を重ねた。
お兄さんの右手はまだブンブンと音をたててうちわを扇いでいた。
僕はママとの事を彼にすべて打ち明けた。
僕がママに二度もぶたれた事。
感情が高ぶってママにひどい言葉を浴びせてしまった事。
ママがパパと離婚するつもりでいる事。
そして……これは事後報告になってしまったけど、僕が一歩でも家を出たら今通っている学校を辞めさせられてしまう事。
お兄さんは、僕の話を黙って聞いてくれた。時々頷いたり苦笑いをしたりしながらも、ただ黙って僕の話に耳を傾けてくれた。
すると、僕の心はとても穏やかになった。僕はこうして誰かに話を聞いてもらいたかっただけなのかもしれない。

 「家出か……懐かしいな」
お兄さんはうちわを扇ぐ手を止め、遠い所を見つめながらそうつぶやいた。
そういえば前にもこんな事があった。 たしかお兄さんは僕の学習机を見つめて同じような事をつぶやいたはずだ。
「まぁ、こんな所で良ければゆっくりしていけよ。壁は薄いし、狭いし、風呂もないけどさ」
お兄さんはまたうちわを扇ぎながらサラッとそう言ってくれた。
壁が薄くたって、狭くたって、お風呂がなくたって構わない。
僕はお兄さんがそばにいてくれれば、明日への一歩を踏み出せそうな気がしていた。