8.
お兄さんが貸してくれたカッターシャツを着ると、僕の体は彼の匂いに包まれた。
お兄さんは、大人の男の人の匂いがした。
彼が仕事に行ってしまうと、6 畳一間の部屋はすごく静かになった。そこには調子を取り戻したクーラーの音だけが小さく鳴り響いていた。
太陽で温められた畳の上に大の字になって寝ると、背中の下がポカポカした。
そして必然的に目に入るのは天井の大きなシミだった。
仰向けになって窓の外を見つめると、眩しい太陽の光が目に入って一瞬幻惑された。
僕は右手に握り締めていたしわくちゃな千円札を広げ、それを目の前にかざしてじっと見つめた。
それは一見なんの変哲もない普通の千円札だった。
僕はクーラーが作動するカタカタという音を聞きながらもう一度目線を動かして外の眩しい太陽を見つめた。
外は朝からすごく暑そうだった。太陽の強い光を見ただけでもそれは十分に分かった。
お兄さんはこんな日にも外で仕事をする。額の汗を拭いながら。暮らしていくためのお金を稼ぐために。
僕は彼が渡してくれた千円札を両手でぎゅっと握り締めた。
お兄さんはこの千円を稼ぐためにいったいどのぐらい汗をかくのだろう……
この1枚の千円札がお兄さんのプライド。そう思うと、このお金を無駄に使ってはいけないような気がしていた。
午前11時を過ぎた頃、僕はお兄さんの自転車に乗って近所のスーパーへ向かった。それは今日のお昼ごはんを調達するためだった。
思った通り、外はすごく暑かった。
僕はその時、自分にできる事はいったい何なのかを考えながら自転車のペダルを踏んでいた。
生温かい風を振り切って。眩しい太陽の光に目を細めながら。
5分ほど自転車を走らせてスーパーへ着くと、その時はもう体中に薄っすらと汗をかいていた。
小さなスーパーの前には特売品がズラリと並べられていた。色とりどりの野菜や日用品など、そこには様々な物が山のように積まれていた。
僕は入口の横に自転車を止め、特売品として売り出されているにんじんや玉ねぎなどをぼんやりと見つめていた。
するとその時、自分がやるべき事をなんとなく理解した。
午後3時。僕は狭いキッチンに立って野菜と格闘していた。それは、お兄さんの夕食を作るためだった。
今夜の夕食はカレーだ。僕はお兄さんがくれた千円というお金でカレーの材料をすべて買い揃えていた。
白いまな板の上には皮をむいた玉ねぎが置かれていた。それに包丁を入れると、目からじわっと涙が溢れてきた。
そして1番困ったのがにんじんとじゃがいもの皮むきだ。
僕は今まで包丁を握った事なんかなかったから、刃物を持つ自分の手があまりにも危なっかしくてドキドキした。
不器用な僕の手はオレンジ色したにんじんの皮を不器用にむいていった。
皮を削り取られたにんじんはやけに細く、削られた皮の方はやけにぶ厚かった。
不器用な僕はまな板の上や畳の上にまで野菜の皮を撒き散らし、後からそれを拾い集めるだけでまた汗をかいてしまった。
ふと見つめたテレビの上には埃が積もっていた。そして窓ガラスにはお兄さんの手の跡がいっぱい付いていた。
僕はその時、後で部屋の中を掃除しようと思っていた。
午後4時を過ぎた頃、白いまな板の上にやっとカレーの材料が揃った。
皮をむいたにんじんとじゃがいもは小さく切り刻んだし、安い豚肉も食べやすい大きさに切り分けた。
玉ねぎだって、大きさはバラバラだけどなんとか食べられそうな状態になっていた。
でも僕は肝心な事を忘れていた。
材料の方はなんとか格好がついたけど、カレーを作るための鍋がどこにあるかを全然確認していなかったんだ。
最初はシンクの下を探したけど、そこにはバケツや洗剤ぐらいしか見当たらなかった。
他に物を置くとしたらここしかない。僕はそう思い、今度は思い切って破れた押し入れのふすまを開けた。
すると、たたんで入れてある布団の上から洗濯物が降ってきた。それはほとんどが真っ黒になった靴下や汗臭いティーシャツなどだった。
「これ……洗濯しなくちゃ」
僕は独り言をつぶやきながら畳の上に落ちた衣類を部屋の隅にまとめて置いた。
そしてその後、少し湿りがちな押し入れの中に首を突っ込んで必死で鍋を探した。
部屋の中にカレーの香りが充満したのは、午後7時頃の事だった。その時、擦り切れた畳の上は真っ赤な夕日の色に染まっていた。
結局僕はカレーを作るのに4時間もの時を費やしてしまった。
僕の小指には包丁で切った切り傷が2つも刻まれていた。
そして初めて使うような鍋を洗剤で洗う時、手に力を入れすぎて人差し指の爪を折ってしまっていた。
キッチンに長い間立っているのは決して楽ではなかった。
僕はもうその時グッタリしていて、少し横になって休みたいと思っていた。
でも鍋の火を止めてやっと一息ついた時、錆びついた階段を上るガンガンガンという足音が聞こえてきた。
そしてその足音はすぐにギシッギシッという音に変わった。
お兄さんが帰って来た。お兄さんはもうアパートの廊下を歩いてこの部屋へ向かっている。
それが分かると、自分がグッタリしていた事なんかすぐに忘れてしまった。
やがてギシッギシッという音が部屋の前で止まった。僕はその瞬間に立ち上がり、急いで玄関のドアを開けた。
ドアの外に立つお兄さんの顔は今朝よりもっと日に焼けていた。
そして短い髪は汗に濡れ、汗を吸ったポロシャツの色は紺色から黒っぽい色に変化していた。
そして夕日が当たる木の廊下にはお兄さんの長い影が映し出されていた。
「お帰り、お兄さん」
お兄さんは最初少し疲れた顔をしていたけど、僕がそう言うとにっこり微笑んだ。
僕はその後すぐに彼の腕に抱かれた。その腕はすごく力強かった。そして彼の汗の香りはすごく心地よかった。
僕はお兄さんに抱きしめられると本当にすべての疲れが吹っ飛んでしまった。
「お前の顔を見たら仕事の疲れが吹っ飛んだよ」
お兄さんが僕の耳に小さくそう囁いた。僕は彼と心が通じ合っている事を知り、とってもとっても嬉しくなった。
僕が彼の香りに酔いしれていると、お兄さんがクンクンと鼻を鳴らして何かの匂いを嗅いでいた。
僕はその様子を悟り、やっと彼の胸から顔を上げた。
「お兄さん、僕カレーを作ったんだ。ご飯を先に食べる? それともお風呂が先?」
その時お兄さんは僕の目をじっと見つめ、当たり前のようにこう言ったんだ。
「こっちが先に決まってるだろう?」
その後すぐにお兄さんの唇が僕の口を塞いだ。それは息が苦しくなるほど長いキスだった。
求め合う唇と背中に触れるお兄さんの手が、とても温かく感じられた。