10.

 車のキーはちゃんとテーブルの上に残っていた。僕はそれを鷲づかみにして、またすぐに駐車場へ戻った。
だけどその時、そこの雰囲気は一変していた。
駐車場には右側の塀に沿ってたくさんの車が停まっていた。 僕は会社の車を奥の方へ停めたつもりだったけれど、その付近に幸也の陰は見当たらなかった。
ただその時は、どこからか怒鳴り声が響いていた。 何を言っているかははっきり聞き取れないが、それはどう考えても幸也の声に間違いなかった。
日没前の景色はすべてが青くて、もっとも物が見にくい環境だ。そのせいか、声は聞こえるのに彼の姿はどこにも見えなかった。
僕は胸騒ぎを覚え、声のする方向へ急いで走った。
すると幸也は、駐車場の出入口付近にいた。その時彼は、1人ではなかった。

 メガネをかけた長身の男が、幸也の腕を引っ張ろうとする。しかし彼は、それを頑なに拒んでいた。
「放せよ! どこへ行こうと勝手だろ!」
幸也は大きく叫んでその人の手を振りほどいた。勢い余って体が傾いても、決して男を睨み付ける事は忘れない。
その様子を見た時は、心臓がバクバク言っていた。事情は分からなくても、彼を守るべきだという事はよく分かる。
メガネの男は、もう一度幸也の腕に手を伸ばした。でも僕は、もう二度とその手を彼に触れさせたくはなかった。
「幸也!」
狂ったようにそう叫んで、もつれる足をなんとか前へ進める。
恐らくあと5〜6メートルで、彼のそばへ辿り着けそうだ。
そう思った時、その声に気付いた2人が一斉にこっちへ目を向けた。
駐車場へ入ろうとする車のライトが、彼らの姿を一瞬にしてシルエットに変える。 それと同時に、出入口を塞ぐ2人へ抗議のクラクションが浴びせられた。 その音の大きさと黄色いライトのまぶしさで、もう何がなんだか分からなくなってしまった。
「行くぞ! 早く!」
すぐ近くで幸也の声がしたと思ったら、今度は僕が腕を引っ張られ、フラつきながらも2人で奥の方へ向かって走った。
右の掌にはしっかりと車のキーが握られていた。でもそれは、汗で少し湿っているように感じた。
僕と幸也はやっとの思いで車へ辿り着き、すぐに中へ乗り込んでドアをロックした。
アクセルを踏んで急発進すると、タイヤがキキーッと嫌な音を上げる。
車の出入口は、たったの一ヶ所しかなかった。 そこを猛スピードで走り抜けた時、メガネの男がこっちを見ているのが分かった。
その時僕は、ある事に気付いた。彼の傍らには、お腹の大きな女の人が立っていたんだ。


 車が道路へ飛び出しても、心臓の動きはまだ激しかった。
とにかく遠くへ逃げなければならない。そんな気がして、どんどん車のスピードを上げた。
さっきは話が弾んだと思ったのに、この時は2人とも無言で前だけを見つめていた。
幸也はすぐそばにいるのに、運転中は彼に触れる事すらできない。 この状態で車は永遠に走り続け、二度と2人が触れ合う事はない……
そんな想像ばかりが、頭の中をグルグル駆け巡る。
いきなり予期しなかった出来事が起こって、もう思考回路が完全におかしくなっていた。
そのうちに周りの景色が黒く染まり始め、今度は闇の中へ突き進む自分を思い描く。
やがて前方に赤信号が見え、ハッとしてブレーキを踏んだ。
ところが赤信号の存在さえ錯覚だった。知らぬ間に追いついた前の車のテールランプが、少しずつ少しずつ遠ざかって行く……
「今夜は、帰りたくない」
不意に幸也がそう言った。彼は虚ろな目をして、遠くの闇を見つめていた。
今日はホテルへは行きたくなかったのに、その瞬間に考えを改めた。 このまま彼を帰してしまったら、二度と会えなくなるような気がしたからだ。
「あの男は誰なんだ? 君とどういう関係なんだ? 僕がいない間に、2人で何を話していたんだ?」
少し冷静さを取り戻すと、言いたい事が次々と頭に浮かんできた。
でも結局は、何一つ言えなかった。幸也の両手が震えていたから、とうとう何も言い出せなかったんだ。


 それから僕たちは、最初に見つけたホテルへ行った。 会社の車でラブホテルへ行くのは気が引けたけれど、もうこうなったら仕方がないと思っていた。
2階の部屋へ足を踏み入れると、一瞬フワッと清潔な香りがした。中は薄暗く、幅の広いベッドだけが淡いライトで照らされている。
肌が汗ばんでいたから、僕は最初にシャワーを浴びたかった。だけど幸也は、いつものようにセックスを優先させた。
「来いよ」
軽く手を引っ張られ、洋服を着たまま2人でベッドへ倒れ込む。 そしてメチャクチャに舌を絡ませ合い、短い時間でお互いの興奮を高めた。
僕はつくづく意志の弱い人間だ。早速ペニスが硬くなり、彼が欲しくてたまらなくなる。
肌を覆う洋服を取っ払ったら、セックスはすぐに始まった。この時は、無意識に薄目を開けていた。
幸也は僕の上になって、腰を激しく揺らしていた。白い肌には汗が光っていて、時々それが周囲に飛び散る。
退屈な右手でペニスをもてあそんだ時、彼は大きく声を上げた。
「うぁ……!」
幸也のそれは熱かった。ヘアーが揺れて、指の第一関節がくすぐられる。
彼が大きく胸を反らせると、あばら骨がはっきりと浮かび上がった。
まだ大人になりきっていない体。若くて綺麗な、幸也の体。
しなやかな腰のラインが、僕の心を揺さぶった。体を重ねるだけでは物足りない。もういっその事、彼の一部になってしまいたい。
多大な願望を思い描いている間も、幸也はまったく動きを止めなかった。 すごく気持ちがよくて、人を観察する余裕などあっという間に失われていく。
またからかわれそうだが、もう限界だった。
なんとか堪えようとしても、少しずつ少しずつ精液が漏れ出してしまう。目を閉じても、息を止めても、決してそれを止める事はできない。
「いく……」
僕は小さく宣言をした。するとその時、いきなり顎の付近に温かいものが浴びせられた。
忙しい右手の中で、幸也のペニスが徐々に萎えていく。
いつも早いと言われていたのに、今夜は2人一緒に頂点に達した。
急いで顎に触れてみると、ヌルヌルした感触がはっきりと指に伝わってきた。
僕は濡れた指先を、舌でそっと舐めてみた。幸也の精液はまずかったけれど、迷わずそれを呑み込んだ。

 僕はそこで力尽きた。一度頂点に達した後、そのまま眠りに堕ちてしまったんだ。
この日はいろんな事があったから、きっと疲れていたんだろう。精神的にも、肉体的にも、もうクタクタだったんだ。
それでも僕は幸せだった。夢の中でも幸也と一緒にいられたからだ。
2人は短いキスを交わし、軽く頬を寄せ合って、それからしっかりと手を繋いだ。 僕たちは笑顔だった。とても楽しそうに、太陽の下をゆっくりと歩いていた。
だけどそれは、儚い夢だった。僕が目を覚ました時、幸也はもうどこにもいなかったんだ。