9.

 幸也は「別に行きたい所なんかないよ」と言った。それでも僕は、とりあえず彼を乗せて車を走らせる事にした。
「車って、これかよ」
助手席の彼が、ため息混じりにそうつぶやく。
僕はこの日、会社の車を借りてきたのだった。従って、真っ白なボディーには大きく社名が入っていた。
「安月給だから、自分の車を持つ余裕なんかないんだよ」
ハンドルを操りながらそう言うと、幸也は小さくクスッと笑った。

 それからしばらく静かな時が続いた。
あまりに日差しが強すぎて、僕は時々目を細めた。
ドライブを始めて30分が過ぎても、周りの景色は代わり映えしない。行くあてのない車は、ひたすら街中をさまよっていた。
セックスをするだけの仲になるのが嫌で、今日はこんな形で彼を誘った。
そこまでは良かったけれど、とにかく間が持たなかった。肌が触れ合っている時には、言葉なんかまったく無意味だというのに。
「なぁ、あそこへ入るか?」
久しぶりに喋ったと思ったら、幸也はホテルの看板を指さしていた。僕は思い切りアクセルを踏み込んで、さっさとそこを通り越した。
普段は幸也の言いなりでも、ハンドルを握っている間はこの程度の抵抗はできる。
今日は絶対にホテルへなんか行きたくなかった。2人は恋人同士とは言えないけれど、とにかく健全なデートがしたかったんだ。
「なんだ、その気じゃなかったのかよ」
赤信号が見えてきて、今度は静かにブレーキを踏む。
やっと話しかけてもらえたのに、緊張して何も言えなかった。その時になって、間が持たないのは自分のせいだとやっと気が付いた。

 信号待ちで停まるたびに、ついつい彼に目をやってしまう。
日差しに透ける髪とか、表情のない横顔。僕はそれを、何度も何度も見た。
幸也はとても綺麗な子だ。どんなに生意気だとしても、それを補って余りあるほど綺麗な姿をしている。
真っ白な手が膝に乗っているのを見るだけで、頬が若干熱くなった。 いつもその手に触れられているのかと思うと、ドキドキせずにはいられなかったんだ。
「信号変わったぞ」
そう言われて、また慌ててアクセルを踏む。
気が付くと、右手の方に高層ビルが見えてきた。僕は無意識のうちに、会社へ向かって車を走らせていたようだ。
そんな自分にうんざりして、それからすぐに左へ曲がった。
「腹減った。あそこへ入ろうぜ」
またホテルへ誘われたのかと思ったら、前方にファミリーレストランが見えてきた。
まずは目的地が見つかって、その時はすごくほっとした。塀に囲まれた駐車場へ車を入れると、眩しさから解放されてますますほっとした。


 ファミリーレストランは空いていた。昼食には遅く夕食には早い、極めて中途半端な時間帯だったからだ。
2人は奥の席へ案内され、白いテーブルを挟んで向き合って座った。
正面に幸也がいると、すごくドキドキしてつい伏し目がちになった。
「オムライスと、コーラと、デザートにチョコプリン。折戸は?」
彼はさっさとオーダーを決めたけれど、こっちは胸がいっぱいで何も食べられそうになかった。 でもそれを覚られるのが恥ずかしくて、僕はわざとボリュームたっぷりのセットメニューを頼んだのだった。

 「なぁ、こんな事して何の意味があるの?」
オムライスを頬張りながら、ためらいもなくそう言う彼。口許にはケチャップがまとわりつき、その様子にふと子供っぽさを感じる。
「腹が減ったらメシを食う。その事に意味なんかないさ」
彼はその返事を聞いても釈然としない様子だった。口許のケチャップを舌で舐めて、ただじっと僕を見つめている。
多分幸也は、「セックスをするわけでもないのに会う意味があるのか?」と言いたかったんだろう。 つまり僕の答えは、完全に的外れなものだった。
コーンスープと、山盛りの肉と、ご飯とサラダと大量のポテト。
僕はテーブルいっぱいに並んだその料理を、なるべくゆっくり食べるように心がけた。 食事が済んでしまうと、「帰る」と言われそうで怖かったからだ。
彼の手の動きとか、視線の向きとか、僕はそういうものに目を奪われた。 ほんのちょっとした仕草が、気になって気になって仕方がなかったんだ。
「由利ちゃんとはうまくいってるのか?」
肉をしっかり噛み締めていた時、いきなりそんな事を聞かれた。それから幸也は、ストローでグラスの中のコーラを吸い上げた。
「うまくいくも何も、彼女とは特別な仲じゃないよ」
本気でそう言ったのに、彼はその言葉を信じていないようだった。疑うような目の表情が、確かにそれを物語っている。
「まぁとにかく、俺との事は気付かれるなよ。別にあんたたちの関係を壊そうなんていう気は、これっぽっちもないからさ」
幸也の方も、本気でそう言っていた。そして僕は、とても複雑な気分になるのだった。

 「最初の夜、洋服も財布もないのにどうやって帰った?」
すっかりコーラを飲み干すと、彼はストローを軽く噛んだ。僕はそのストローになりたいと思ったけれど、もちろん口には出さなかった。
「会社の同僚にホテルまで迎えに来てもらったんだよ。裸で放り出されたのが分かった時は、しばらく途方に暮れたけど」
「その人には、どんなふうに説明したの?」
「悪い女に引っかかったと言っておいたよ」
「へぇ……」
機嫌よさそうに彼が笑った。こういう話は、いつも彼を喜ばせるようだ。
僕の緊張もやっと解けて、食事の間は会話が弾んだ。幸也はあまり自分の事を話さなかったけれど、僕の話はすごく真剣に聞いてくれた。
山本には話しにくい事も、不思議と彼には打ち明けられた。 幸也は裸の僕を知っているから、何も隠し立てする必要がなかったんだ。
「昔はいろいろ夢があったのに、どうしてサラリーマンになっちゃったのかな」
「夢って?」
「パイロットとか、野球選手とか」
「子供にありがちな夢だな」
「でもサラリーマンになりたいと思った事は、一度もなかったんだよ」
「嫌なら辞めちゃえば?」
「それができたら、爽快だね」
「だけど今の会社も悪くないだろ? 夜中に飛んで来てくれる同僚もいるし、由利ちゃんだっているんだし」
幸也は珍しく愛想笑いを見せた。僕にとって由利ちゃんは、最高に悩ましげな存在だというのに。
「彼女とは、いずれ距離を置く事になると思う。それが分かるから、今がつらいんだよ」
冷めたスープと一緒に、かろうじてその言葉を呑み込んだ。すると胸のあたりが、少しだけひんやりとした。

 幸也と出会ってからは、いろいろな事があった。
由利ちゃんは僕らの出世に欠かせない存在だ。 そして山本は、思った以上に出世に関心があるらしい。それを薄々感じ取ったのは、まさに彼と出会った日の事だった。
あの夜、山本は電話1本でホテルまで迎えに来てくれた。その事については、今でも深く感謝している。
ただ帰りのタクシーの中で、彼は二度も同じ言葉を繰り返した。
「由利には内緒にしておくから安心しろよ」
その時は、黙って頷くしかなかった。でも本当は、少し悲しかったんだ。
山本は僕の被害には言及せず、別な事に気を取られているようだった。 盗難に遭ってしまった僕は、ショックと喪失感でいっぱいだったのに。
それでもなんとか気を取り直し、静かな夜の景色を眺めて、しばらくぼんやりと考えた。
自分はパイロットでもなく、野球選手でもなく、サラリーマンになった。
だったらそこで上を目指すのが正しい道なのかもしれない。 由利ちゃんの夫になって、少しばかり給料が上がって、いずれ役員にでもなれたらきっと成功なんだ……
その時は、なんとか自分にそう言い聞かせようとしていた。
翌日幸也と再会しなければ、僕はあのまま流されていたのかもしれない。


 日が沈む頃、ようやく2人は席を立った。
幸也は「帰る」とは言わなかったけれど、僕はこの後どうしていいのか分からなかった。
その時間は随分客が増えていて、駐車場にもぎっしりと車が停まっていた。
アスファルトの上を歩くと、2人の足音が大きく耳に響く。
その時僕は、ある事に気付いた。大事な車のキーを、テーブルの上へ置き忘れてしまったんだ。
「ごめん。ちょっと待ってて」
彼に訳を話した後、駐車場に背を向けて駆け出した。
もしも僕がキーを忘れなかったら、この後2人はどうなっていたんだろう……