15.

 午後からの会議が長引き、終わった頃には外が暗くなり始めていた。
煌々と明かりの灯る会議室で、僕は山本と一緒に片付けを始める。
「なぁ、お前由利とはどうなってるんだ?」
山本は僕から遠いところでそう言った。その口調は、あまり穏やかではなかった。
「別に、どうにもならないよ」
彼が何故不機嫌なのか、僕にはよく分かっていた。
今日の会議では、同期の仲間の持ち込んだ企画が採用になった。それでいて僕たちは、相変わらずこうして雑用に追われている。 山本はその事が、どうしても我慢ならないようだった。
「お前はこのままでいいのか?」
曖昧な返事が気に入らなかったのか、彼の口調が更にきつくなった。
山本は僕と由利ちゃんが婚約でもすれば、自分たちに仕事のチャンスが回ってくると信じて止まないようだ。
「彼女とは、そろそろ距離を置くつもりだよ」
これが僕の本心だった。
でも今それを口にするのは得策ではない。ここでそんな事を言ってしまえば、今すぐ彼に殴られそうだから。
「ここは僕に任せて。もう行っていいよ」
だから本心を隠したまま、彼の顔も見ずにそう言ってやった。すると山本は、チッと舌打ちをして会議室を出て行った。

 1人きりになると、まずは小さく息をついた。
テーブルの上には書類が散らばっていたけれど、それを無視してゆっくりと椅子に腰掛ける。
それから僕は、黒く変わっていく空の景色を眺めていた。
こうしているうちに、また1日が終わる。そう思うと、ほんの少しだけ胸が痛くなった。
僕と幸也の距離は、日に日に離れていくようだった。
彼はついに携帯電話の番号を変えてしまった。 今まで使っていた番号は、もう使用されてはいないらしい。昨夜電話をした時に、そういうアナウンスが空しく耳に響いたのだった。
これでは本当に八方ふさがりだ。田代守にも、どう報告していいのか分からない。
その一方で、最近は幸也との事を少し前向きに考えられるようになっていた。
いくらなんでも未成年の彼がこのままずっと放浪を続けるとは到底思えない。 必ずいつかは行き詰って、家へ帰る日がくるはずだ。そうなれば、また2人で会うチャンスもやってくるだろう。
だったら今は、落ち着いて待った方がいい。もちろん彼を探す事はやめないけれど、それを続けながらその時を待てばいいんだ。
そう思うようになってからは少しは気が楽になった。幸也と再会する日の事を考えて、あれこれ想像するのも楽しみだ。
今度彼に会ったら、しっかり目を見て言わなくちゃ。「君が好きだ」とはっきり言って、返事を待たずに抱き締めたい。
僕の望みはそれだけだ。もしこの気持ちに応えてもらえなくても、幸也を愛した事を後悔したりはしないだろう。


 1人で片付けを終えると、会議室を出てすぐにオフィスへ戻った。
他の社員たちは、誰もが忙しく仕事をしているようだった。 パソコンと向き合っている者もいれば、書類を大量にコピーしている者もいる。
よく聞き取れない程度の話し声やコピー機の音は、僕を不思議と落ち着かせてくれた。
自分の席に着くと、机の上に見覚えのない封筒が置いてあった。 早速その中身を見てみたら、そこには小さなメモ用紙が入っていた。

良かったら、今夜映画にでも行きませんか?
今は会議中みたいなので、メモを残していきますね。

伝言の文字はとても綺麗で、名前がなくても由利ちゃんの書いたものだとすぐに分かった。
彼女は、会議中にデートの誘いで僕の携帯を鳴らすような人ではない。
「折戸さん、3番にお電話です」
小さなメモを眺めていた時、どこからかそんな声が聞こえてきた。
僕は慌ててそばの電話に手を伸ばし、呼吸を整えて受話器を耳に当てる。
「お電話変わりました、折戸です」
それは多分、とても事務的な口調だったと思う。
僕は由利ちゃんのメモを机の引き出しに入れながら、電話の相手が何か言うのを待っていた。
ところが耳に響くのは雑音ばかりで、なかなか返事は返ってこなかった。
ガヤガヤと響く雑踏の音色と、バイクのエンジン音と緩い風の音。
僕はそれをどのぐらい聞いていただろう。それは随分長い時間に思えたけれど、実際はほんの数秒に過ぎなかった。
でもその何秒かの間に、僕は気付いたんだ。
根拠はないのに、何故か確信があった。幸也は今、受話器の向こうにいる。
「幸也?」
囁くようにそう言うと、受話器の向こうから小さく息を呑む音が聞こえてきた。
その時僕は、今までの苦労を一瞬にして忘れた。彼の方から電話をしてきてくれた事が、何よりも嬉しかったからだ。