16.

 その夜街には初雪が降った。外の風は冷たくて、歩道を走ると時々雪が頬に当たった。
本当は電話を切った後、すぐに幸也に会いに行きたかった。 しかしどうしても片付けなければならない仕事があって、結局会社を出た時には7時を過ぎていた。
それからタクシーに乗ったけれど、案の定渋滞に巻き込まれてしまった。だから途中で降りて、寒空の下を走り出したのだった。
「何時になっても構わない。あんたが来るまで待ってるから」
電話口で、幸也はそう言った。それはまったく彼らしくないセリフだった。声のトーンも、今までとは違っていた。

 待ち合わせのゲームセンターは、繁華街のど真ん中にあった。 随分前から看板は見えているのに、人通りが多すぎて思うように前進できない。
これでは渋滞に巻き込まれた車に乗っているのと、さほど変わりはないのかもしれない。 それでも気分的には随分違った。シートに座ってじっとしているよりは、自ら動く方が気が紛れる。
すれ違う人たちは、皆寒さに震えているようだ。
でも僕は、だんだん体が温まってきた。 もうすぐ幸也に会える。そう思うと体だけではなく、心の中までもが熱くなってくるようだった。

 ゲームセンターへ飛び込むと、息を整えながら辺りを見回した。
店の中は薄暗くて、ゲームの電子音が鳴り響いている。客はそれなりにいたけれど、幸也の姿は見当たらない。
「どこだ……」
独り言をつぶやいて、奥の方まで行ってみた。
シューティングゲームに興じる男たちが、大声で笑っている。彼らは幸也と近い世代のようだが、その中に彼がいる様子はない。
そのまま右へ進むと、スロットの台が並んでいるスペースへ出た。 すると今度は、コインのぶつかり合う音がジャラジャラと響いてきた。
しかしそこにも幸也の姿はない。しばらくその付近をうろついてみても、それらしき人影は見えなかった。
「どこにいるんだよ」
店内はそれほど広くはなかったので、彼とはすぐに会えると思っていた。 でも1分2分と時間が経つにつれて、だんだん不安が広がってくる。
電話越しに聞いた幸也の声は、明らかに疲れていた。 彼の様子がおかしいのはすぐに分かったけれど、周りに人が多すぎて、電話では詳しい事情が聞けなかった。
よく考えると、会社に電話をしてきたのも不自然だった。 直接僕の携帯にかければいいのに、彼は何故そうしなかったんだろう……
僕はそんな事を思いながら、何気なくスロットの台に背を向けた。
するとその時、突然幸也を見つけた。裏口のガラス戸を通して、彼と目が合ったんだ。
薄手のセーターを着て腕組みをする様子は、いかにも寒々しかった。 散々探してやっと会えたのに、その姿を見た時は切なくなった。


 僕たちは、すぐにその近くのホテルへ行った。幸也とじっくり話し合うには、それが1番だった。
客室のドアは少し歪んでいた。それでも中は案外綺麗で、ヨーロッパ風の家具が2人を出迎えてくれた。
奥の壁が鏡張りになっているのは、部屋を広く見せるための工夫だろう。 埋め込み式の照明は同じ鏡と向き合っていて、その結果、いろんな方向から弱い光が放たれていた。
幸也がベッドに腰掛けると、その背中がピカピカの鏡に映し出された。 彼はきつい目をしていたけれど、細い背中はとても弱々しく見えた。
「久しぶり」
その言葉は鮮明だった。けれど声は、やっぱり疲れていた。
彼は以前より痩せたようで、頬の肉が明らかに減り、少しげっそりしているような印象だった。
僕はその顔を見た時、話し合うのはもっと後の方がいいと思った。

 コートを脱ぎ捨て、ネクタイを緩め、椅子にゆったり腰掛ける。
それから幸也に微笑みかけると、彼は兄と同じく戸惑ったような表情を見せた。
「腹が減ってるなら、何か食べるか?」
そんなふうに言ってみても、小さく首を振るだけだ。
一瞬の沈黙の後、僕は自分の目的を思い出した。
そうだ。早く「好きだ」と言わなければ。そう思って息を吸った途端、不意に幸也が喋り始めた。
「あんたに聞きたい事がある。俺の携帯の番号、どうやって知ったんだ?」
それはさっきまでとは違う力強い口調だった。その時幸也は、じっと僕を見つめていた。
「君の兄さんに聞いたんだよ」
質問に答えた時、彼がどんな反応を示すか興味があった。兄の手を振りほどく姿が、脳裏に焼きついていたからだ。
ところが幸也は無表情だった。笑う様子もなく、怒る様子もなく、驚くような素振りも見せない。
「兄貴はあんたに何か話したのか?」
「君を探してると言ってたよ」
「他には?」
「他って? どんな事?」
「兄貴は俺との関係については何も言わなかったのか?」
そう聞かれて、田代守と話した時の事を少しずつ反すうした。幸也の顔は、危険な黄色の光で照らされていた。
「君との関係って、2人は兄弟なんだろう?」
そう言った瞬間に、幸也は眉をひそめた。何も知らない僕の言葉が、彼を苛立たせたのかもしれない。
彼は深くため息をついた後、着の身着のままで布団に潜り込んだ。 そして僕は、もうそれ以上言葉を投げ掛ける事ができなくなった。

 それから少しの間、ベッドの上の隆起した布団を漠然と眺めていた。
本当は僕も少し眠りたいところだった。なんだか急に疲れてしまって、頭と体を休めたいと思った。
でも、幸也と同じ布団に潜るのはなんとなく気が引けた。 以前はこんなふうには思わなかったのに、今はそうしてはいけないような気がしたんだ。
僕は幸也と再会したら、もっと嬉しい気持ちになると思っていた。でも実際はそうではなかった。
今の彼は、あまりにも痛々しい。うかつに触れると、壊れてしまいそうだ。
ここしばらくの放浪生活が、彼をそんなふうに変えた事は間違いない。
とにかく、このままではいけない。どうにかうまく説得して、彼を家に帰さなければならない。
でもその前に、少し仮眠を取ろう。やっぱり僕も、疲れている。
そう思うか思わないうちに、自然と瞼が重くなってきた。視界が少しずつ暗くなり始めて、眠りに堕ちるのも時間の問題だった。
「最近まで、週に一度は俺の口座に金が振り込まれてたんだ。でも、突然それがなくなった」
僕は最初、その声を幻聴と勘違いした。あまりにもか細くて、遠くから聞こえてきたように思えたからだ。
「あいつは俺に帰って来いと言ってるんだよ。今までは家出を容認してたくせに」
隆起した布団はピクリとも動かなかった。幸也は布団に潜ったまま、独り言のように話していた。
「でも、どうしても帰りたくない。兄貴は俺を裏切ってあの女と寝たんだ。女はもうすぐ子供を生む。 そんな所になんか、帰りたくないよ」
遠い声は、じわじわと僕の心臓をえぐった。体中の血液が、一気に頭に押し寄せる。
危険な黄色の光は、隆起した布団を静かに照らし続けていた。
それが小刻みに震えるのを、僕は確かに見たのだった。でもそんなふうに見えたのは、僕の方が震えていたからかもしれない。