19.

 翌朝会社へ行くと、机の上に書類がたくさん乗っかっていた。 僕はそれに目を通し、自分のやるべき事を頭で考える。
時々オフィスの中を見回しても、その風景はいつもとまったく変わりがない。
「昨日はどうして休んだの?」
こう聞かれる事を想定して、通勤の電車の中でその答えを準備した。
なのに、そんな事を言う人は誰一人いなかった。それはつまり、僕なんかいてもいなくても同じという事なんだろう。


 僕がオフィスを出たのは、午前11時頃だった。
それは得意先へ向かうためだったが、外の風に当たるためでもあった。
昨日は寝不足のまま動き回ったから、心身ともに疲れていた。1日中机に向かっていると、絶対に居眠りをする自信があったんだ。 だから少し外の風に当たって、気を引き締めようと思ったのだった。
ところが、すんなりと外へは出られなかった。1階のロビーで、偶然由利ちゃんと鉢合わせしたからだ。
「折戸さん……」
エレベーターを降りた途端に、2人はバッタリ出くわした。 彼女は短い赤のコートを着ていて、たった今出先から戻ってきた様子だった。
外は風が強いらしく、長い髪は少し乱れていた。しかし彼女は、まったくそれを気にしていなかった。
「昨日はどうしてお休みしてたんですか?」
由利ちゃんは心配顔で僕を見つめた。
その時は、正直言って油断していた。今まで誰もそれを聞かなかったから、もう永遠に聞かれないものと高をくくっていたんだ。
ところが思いがけず不意打ちを食らってしまい、準備していたはずの答えが全然出てこなかった。 恐らく僕は、由利ちゃんに嘘をつくのを一瞬ためらったんだと思う。
「いや、ちょっとね……」
やっと声を絞り出したけれど、それは曖昧すぎる返事でしかなかった。
それでも彼女は、不審な顔は見せなかった。少し笑って、2度ほど軽く頷いただけだ。
「折戸さん、メモは見てくれましたか?」
話題が変わった事にほっとして、僕は胸を撫で下ろした。
後から考えると、この時の自分は世界一無神経な男だったと思う。
「メモって? 何だっけ?」
僕の声は、ロビーに吹く風にあっという間に消された。 ビルの入口のドアが少し開いただけで、外の風が大量に入り込んできたんだ。
「あぁ、見てないならいいです」
彼女の髪が大きく揺れて、澄んだ目にわずかな光が差した。
さっきから、受け付けの女の子が僕らの方をチラッチラッと見ている。きっと由利ちゃんも、その事はよく分かっていたはずだ。
「じゃあ、失礼します」
彼女は僕に会釈して、ゆっくりとエレベーターへ乗り込んだ。ドアが閉まるその瞬間まで、笑顔をずっと絶やさずに。

 やっと外へ出ると、冷たい風に煽られて体が右へ傾いた。
街路樹の枝は激しく揺れていて、枯れ葉が次々と足元に飛んでくる。
日差しは強いけれど、温かさはほとんど感じられない。もしかすると、夜にはまた雪が降り出すんじゃないだろうか。
「寒いなぁ」
意味なく独り言をつぶやいて、僕はそこから歩き出そうとした。
しかしその時、またもや足止めを食らってしまった。ビルの前に止まっていた黒塗りの車から、田代守が颯爽と降りてきたからだ。
彼の姿を見た時は、さすがにドキッとした。また会う機会があるとは思っていたけれど、どうしてそれが今日なんだ……
「とりあえず、乗ってください!」
田代守は2〜3歩僕に歩み寄り、それを促すように手招きをした。強風に煽られて、彼の体も一時右へと傾いていた。

 助手席に乗り込んだ時、彼はルームミラーを見ながら簡単に髪を整えていた。 その身を包んでいるのは、黒に近いモスグリーンのスーツだった。
車内には、甘酸っぱい芳香剤の香りが漂っている。そして、ダッシュボードの上には分厚い本が不自然に横たわっていた。
それを見た時、僕はすぐに気付いた。その本は、以前幸也が立ち読みしていたのと同じものだった。
それを知った時には、胸に鈍い痛みが走った。幸也はあの時、兄を思いながらこの本を読んでいたに違いない。
「今日は風が強いですね。吹き飛ばされるかと思いましたよ」
髪を整え終わると、田代守がそう言った。その笑顔に幸也の面影が重なって、僕はとても複雑な思いがした。
「どこへ行くんですか? 送って行きますよ」
ハンドルに両手を置いて、幸也の兄がそっと微笑む。いろいろな思いはあれども、今はとにかく平静を保たなければならない。
「S商事へ行くつもりだったけど、特に急ぎません」
「そうですか。じゃあ少しドライブしながら話しましょう」
そして車は動き出した。高級車だったので、その走りはとてもスムーズだった。

 外を歩く人たちは、例外なく風に吹かれていた。僕もその仲間入りをするはずが、思いがけずこんな車に乗っている。
車を出してしばらくは、2人とも無言だった。
ハンドルをさばく手を見ていると、どうしてもそれが幸也に触れるところを想像してしまう。
彼は常に兄の愛撫を欲していたんだろうか。そして、いつもその手を濡らしていたんだろうか……
「突然来てご迷惑でしたか?」
信号待ちで止まった時、田代守にそう言われた。
僕は彼の手を見るのを止めにして、すぐに小さく首を振った。 本当は迷惑でない事もなかったけれど、ここは一応大人の対応をしておいた。
「いいえ、そんな事ありませんよ。どうせ大した仕事もないし」
「そうですか。今日は幸也の捜索状況を伺いたくて、あなたを待っていたんですよ」
車は再び走り出した。例の本は、ダッシュボードに置き去りにされたままだった。
「早速ですが、何か手掛かりは掴めましたか? 相変わらずこっちには電話1本して来ないんですけど」
「僕なりにいろいろ当たってみてはいるんですが、まだ彼とは連絡が取れていません。ちっとも役に立たなくて、本当にすみません」
運転中は前を向いているから、田代守とは目を合わさずに済んだ。
その時車は、自社ビルの周りをグルグル回っているだけだった。僕は同じ景色を何度も眺めながら、昨日の事を思い返していた。


 幸也と2人でホテルを出た後は、ネットカフェで軽い朝食を食べた。 カフェオレとクロワッサン。たったそれだけの食事を、2時間かけてゆっくりと食べたんだ。
それにはちゃんとした理由があった。僕たちはパンをかじりながら、インターネットを使って部屋探しをしていたんだ。
彼の家は不動産屋だし、うちの会社にも不動産部門はある。 まともに部屋を借りるなら、そっちのコネを使った方がいろんな面で楽だった。
でも、それではダメなんだ。誰にも内緒で部屋を借りる以上は、当然コネを当てにしてなんかいられないのだった。
僕と幸也は狭い個室の中で椅子に座り、長い間パソコンのブラウザに見入っていた。
彼の希望を聞きながら、良さそうな物件を探す事1時間半。 その間に3件ほどに候補を絞って、午後から部屋を見に行く手はずを整えた。
「ふぅ……」
一通り事が済むと、幸也は軽く息を吐いた。
そのネットカフェは、彼が何度か利用した事のある店だった。そこには個室が50個もあって、その半分は使用中のようだった。
しかし店内は妙に静かで、キーボードを打つ音ぐらいしか聞こえてこなかった。 幸也の吐息がやけに大きく響いたのは、きっとそのせいだ。
2人用の個室はあまりに狭く、ベンチシートに並んで座るととても窮屈だった。
幸也がこんな所で寝泊りしていたのかと思うと、本当に本当に切なくなった。

 ところが物事を深刻に捉えているのは僕だけだったようだ。
部屋探しが一段落すると、幸也は僕を捕まえて激しいキスをした。
舌を強く吸われたり、あるいは優しく舐められたり。そんな事を繰り返しているうちに、ペニスはまたもや反応してしまった。
それを知ってか知らずか、彼の手が股間にそっと触れる。興奮を覚られた時は恥ずかしかったけれど、体は正直だからどうしようもない。
幸也がベルトを外しにかかった時は、バックルの音が気になってすごくドキドキした。
彼の舌を味わっているうちに、あっという間にパンツを下ろされる。 革張りの椅子に剥き出しの尻が触れた時には、その冷たさに少しだけ怯んだ。
やがてキスの雨が止むと、彼が随分と大胆な行動に出た。 パソコンを乗せた机の下にサッと潜り込んで、僕のペニスを口にくわえたんだ。
「はっ……」
僕は叫び出しそうになるのを必死で堪えた。 きつく目を閉じて、唇を真一文字に結び、今にも溢れそうな歓喜の声を喉の奥へしまい込んだんだ。
それでも幸也は容赦しなかった。ペニスの先端に何度も舌を這わせ、僕をジリジリと追い詰める。
それはなんともスリリングな体験だった。
いくら個室とはいっても、薄いドアのすぐ向こうは人が行き来をする通路になっていた。 僕が快感に耐えている間、いったい何人の人たちがそこを通り過ぎていっただろう。
小さな足音が近付いてくると、全身からじわっと冷たい汗が噴き出した。
こんな淫らな姿を人に見られたら、恥ずかしくて死んでしまうんじゃないだろうか。 でも絶頂の時に息絶えるなら、それはそれで幸せだ……
僕はそんなバカな事を考えながら、幸也の頭を両手で掴んだ。するとその時、ペニスの先端を思い切り強く吸われた。
もう少し我慢できると思っていたのに、僕はその瞬間に果ててしまったのだった。


 昨日の記憶は、そこで途切れた。田代守が何か言ったので、僕はそれに答えなければならなかった。
「差しつかえなければ、教えてください」
「……」
「さっき話していた人は、恋人ですか?」
車は意味なく走り回り、また自社ビルの前に戻ってきた。つい数分前までは晴れていたのに、空には雲が広がりつつあった。
この男は、あなどれないな。
灰色に変わり行く空を見つめて、僕はそう思った。
彼はこの車の運転席から、僕と由利ちゃんがロビーで話す様子を見ていたんだ。
彼女の心配顔や、僕の戸惑い。恐らくそのすべてを、じっくりと観察していたに違いない。
「いいえ、彼女は恋人ではありません」
僕は正直にそう答えた。彼の横顔を盗み見ると、目が微かに笑っていた。
「そうですか、おかしな事を聞いてすみませんでした。そろそろS商事へ向かいましょう。これ以上仕事の邪魔をしては申し訳ないですから」
とても丁寧な口調だった。そこからは、何の感情も読み取れない。
この男はいったい何をしに来たんだろうか。少なくとも、弟の捜索状況を聞きに来たとはとても思えなかった。
一応そのポーズを取ってはいるけれど、幸也の捜索に興味を持っているようにはまったく感じられなかったんだ。
大体彼は、どこをどう探したのかもろくに聞かない。それに、僕と幸也の関係についてもほとんど触れようとはしない。
それはきっと、自信があるからだ。
彼は送金を止めたり携帯を解約したりする事で、徐々に弟を追い詰めようとしている。
恐らくそれを続ければ、幸也が白旗を揚げると確信しているんだ。
僕に何も聞かないのは、きっとそのせいだ。 黙っていても弟は戻ると信じきっているんだから、僕がどんなふうに捜索しようと興味がないのも当然だった。
幸也を取り戻す術を、彼はちゃんと知っているというわけだ。 すべての事の成り行きは、その後ゆっくりと弟から聞きだすつもりでいるんだろう。
でも、それはちょっと甘い。
僕は幸也に住む場所を提供し、新しい携帯電話を買い与え、当座の生活費も渡した。
兄からの送金が止まっても、元の携帯を解約されても、もうそんな事はどうでもよくなっているんだ。
幸也の部屋はあまり広くはないが、日当たりは良好だし、備え付けの家具も案外オシャレだ。
兄の目論見とは裏腹に、彼は今頃あの快適な部屋で昼寝でもしているに違いないのだった。

 田代守は穏やかな表情で前を見つめていた。
耳の形とか、首筋から肩へ続くラインとか、そういうふとした部分に幸也との共通点が浮かび上がる。 彼はいつものようにメガネをかけていたが、それを外すともっと弟に似ているのかもしれない。
何度も幸也に触れたであろう右手が、そっとウィンカーを出す。そしてその手は、慎重にハンドルを操っていた。
彼は気付いていないと思うけれど、僕たちは今同じ立場にいる。
幸也は兄のところへは戻らないだろう。そして、僕のところへも戻らない。
僕はすでに心に決めていた。これからは、幸也と距離を置く事を。
彼は田代守を愛している。それを知ってしまった以上、そうするしかないと思ったんだ。
幸也が僕と寝たのは、兄に対する当てつけだったんだろうか。 本当のところは分からないが、好きでもない人とああいう行為をするのはあまり好ましい事ではないだろう。
だからもうそんな事は止めにして、ただ遠くから彼を見守りたいんだ。
今後は僕が兄に代わって、幸也に必要な分だけ送金する。それで暮らしは保障されるから、後は好きなように生きればいい。
誰にも理解されないかもしれないが、これが僕のやり方だ。
彼が健康的な毎日を送ってくれればそれでいい。僕はもう、幸也のやつれた姿を見たくはないのだった。