20.

 その日は帰りがけに廊下で山本と出くわした。すると彼は、早速僕を夜の街へと誘った。
「おい、久しぶりに飲もうぜ」
山本がニヤッと笑いながら、右手でグラスを傾ける仕草を見せる。
でも僕は、その申し出を断るつもりだった。それは、机の中にしまってあったメモを見つけてしまったからだ。

良かったら、今夜映画にでも行きませんか?
今は会議中みたいなので、メモを残していきますね。

 僕は由利ちゃんの書いたそのメモの事を、すっかり忘れて過ごしていた。 幸也の事で頭がいっぱいで、その存在はしばらく闇に葬られていたんだ。
しかし退社間際にメモを発見し、今夜はその埋め合わせをするべきだと思っていた。
「ごめん。今日はちょっと……」
「なんだよ、たまには付き合えよ」
彼とそんなやり取りをしている間にも、次々と退社する社員とすれ違った。
その中には、仕事に疲れて俯いている人もいたし、同僚と楽しそうに談笑して歩く人もいた。
「おい、由利が来たぞ」
その人たちの中に彼女の姿を見つけたのは、山本の方が先だった。
廊下の奥を眺めると、たしかに退社する人の群に赤のコートが見え隠れする。
この時僕は、どうしたらいいのか分からなくなった。
今夜は彼女と食事に行こうと思っていたけれど、山本の誘いを断っておきながら彼の目前で由利ちゃんを誘うのも気が引けた。

 そうこうしているうちに、赤のコートがどんどん近付いてきた。そして間もなく、彼女が僕たち2人の姿を認めた。
廊下の明かりが、長い髪を光らせる。由利ちゃんはゆっくりと前へ進みながら、遠慮がちに微笑んだ。
トレンチコートの襟を整えて、すぐに山本が笑顔を返す。だけど僕は、とっさに笑う事ができなかった。
「折戸さん、メモは見てくれましたか?」
「メモって? 何だっけ?」
ロビーで彼女と交わした会話が、重く心に圧し掛かる。
あの時由利ちゃんは、どんな思いでいたんだろう。
計り知る事はできないけれど、傷付けてしまった事は間違いない。それでも彼女は、何事もなかったかのようにやり過ごした。
そういう人だからこそ、僕にはもったいないと思ってしまうんだ……
「お疲れ様です」
由利ちゃんは僕たちの前で立ち止まった。小さく会釈をすると、長い髪がフワリと揺れ動いた。
僕と彼女の間に流れる空気は、微妙に淀んでいるように思えた。しかし山本がその空気を感じ取る事はなかった。
「これから食事に行くんだけど、一緒にどう?」
普段より少し高い声で、彼が由利ちゃんを誘った。 それは僕が言うべき言葉だったのに、また彼に先を越されてしまった。
「でも……」
彼女は口ごもって、戸惑いがちに僕を見つめた。
その時すぐに分かったんだ。彼女は自分が一緒に行く事を、僕が快く思わないのではないかと心配している。
「行こうよ。今夜はこいつのおごりだから、おいしい寿司でもご馳走になろう」
僕の方からも誘いをかけると、彼女の顔がパッと明るくなった。廊下に響くざわめきが、今はとても心地いい。
「おい、いつ俺がおごるって言ったんだよ!」
山本も彼女と同じだった。 僕のつまらない冗談に突っ込みを入れながら、彼も明るい笑顔を見せてくれたんだ。


 僕たち3人は、談笑しながら外へ出た。
昼間の風は止んでいたけれど、夜は空気が凍てついている。でも心配した雪は、今のところ降り出す様子はない。
都会の空には星が少なかった。それでも月は、明るく輝いている。
繁華街に向かって歩を進め、ふざけて山本の胸に軽いパンチを浴びせてみた。 すると彼も応戦して、早速ファイティングポーズをとって見せた。
由利ちゃんはそんな2人の姿を、微笑ましく見つめていた。
ポケットの中で携帯電話が震えていたけれど、僕はそれに気付かないフリをした。