2.

 朝の会議が終わると、同僚の山本が僕の背中をポン、と叩いた。
重役たちがさっさと会議室を出て行く中、僕たちはこれから後片付けに追われるのだった。
「変に色気を出すから、あんな目に遭うんだぞ」
彼は丸テーブルの上の灰皿を集めて、ニヤニヤしながらそう言った。
だけど返す言葉が見つからない。
僕は数時間前、恥を忍んで山本に電話をした。そしてすべての事情を話し、すぐにホテルへ迎えに来てもらったのだった。
「しかしお前もひどい女に引っかかったもんだな。ちゃんと顔は覚えてるのか?」
「……だとしても、どうしようもないだろう?」
彼の言葉に、深くため息をついた。昨夜の相手が男だったとは、口が裂けても言えない……
「まぁ、あまり落ち込むなよ。こんな日もあるさ」
ありきたりな慰めの言葉が、ただ空しく耳に響いた。
会議室は自社ビルの最上階にある。そこの窓から見える景色は、いつも同じだった。
視線を左右に動かすと、あっちこっちにビルが見える。この辺りはオフィス街なので、高層ビルは珍しくもないのだった。
地上何十メートルかは知らないけれど、そこにはせっせと働く人の姿があった。
僕も彼らも、全然地に足が付いていない。今突然大地震が起こったら、皆いったいどうなってしまうんだろう……
「この景色も見飽きたな」
山本は僕の横に立ってぽつりとそうつぶやいた。短い前髪を指でいじるのは、彼の昔からの癖だった。


 この日の午前中は、最悪な情事の後始末に追われた。
何しろ財布も携帯電話も盗られてしまったから、クレジットカードをロックするなどいろいろとやる事があったんだ。
面倒な作業が一通り終わると、寝不足がたたって何度も繰り返しあくびが出た。
残暑がとても厳しくて、外を歩くとすぐに汗が噴き出してくる。
あまり食欲はないけれど、コンビニに立ち寄っておにぎりを2つ買った。
盗まれた財布には、3万円ほどの現金が入っていたはずだ。平社員の僕にとって、それは決して笑い飛ばせるような金額ではなかった。
これから昼飯は質素に済ませよう。そしてしばらくは、飲み会を全部パスして真っ直ぐ家へ帰る事にしよう。
僕は心にそう決めて、まぶしい太陽に目を細めた。


 おにぎりを片手に自社ビルへ戻ると、受け付けの女の子に呼び止められた。
1階のロビーは閑散としていた。美人の受け付け嬢がいなければ、そこはかなり寒々しい雰囲気になるだろう。
「折戸さん、お客様があちらでお待ちになっています」
彼女が指さす方向を見ると、そこには確かに人影があった。
エレベーターの向こうに籐の衝立があり、その奥には応接セットが置いてある。 皮のソファーに座っている人の背中は、衝立越しにはっきりと見えた。
誰だろう……
少し首を傾げながら、ゆっくりとその人に近付いた。
今日は誰かが訪ねてくる予定もなかったし、その背中にはまったく見覚えがなかった。
真っ直ぐに歩いていくと、僕の靴音が広いロビーに大きく響いた。すると、見覚えのない背中がすぐにそれに反応した。
彼の後ろに立ったのと、細い背中がピクッと動いたのは、ほとんど同時だったと思う。
振り向くその人の姿を間近で見た時、僕は愕然とした。
目鼻立ちがはっきりしていて、髪は薄い茶色。
見覚えのあるその少年は、僕のスーツをしっかりと着こなしていた。