21.

 アパートの部屋はロフト式で、日当たりはいいがそれほど広くはない。
窓の横には大きすぎるテレビ。そして、クローゼットには学ランとアルマーニのスーツが1着ずつ。
決して居心地が悪いわけではないけれど、ここが安住の地とは思えない俺がいる。
「いい部屋じゃん。こんなところを用意してくれるなんて、幸也はいいスポンサーを見つけたんだな」
大樹は窓を背にして座っていた。まだらに染まった茶色の髪が、午後の日差しに透けている。
これまでそんなふうに感じた事は一度もなかったのに、今は学ラン姿の彼がとてもまぶしく見える。
「そうでもないよ。別に金持ちってわけじゃないし」
「でも、家具も洋服もそいつが揃えてくれたんだろ? 金持ちではないかもしれないけど、貧乏でもなさそうじゃん」
大樹はそう言って笑い、大きな紙袋の中から黒っぽい色のセーターを取り出してじっと眺めた。 その紙袋には、折戸の買ってくれた洋服が5〜6枚ほど詰め込まれている。
「なぁ幸也、もう学校には来ないのか?」
彼の目は一瞬俺に向けられ、またすぐに黒のセーターを見つめた。
大樹は俺の親友だ。中学生の時に知り合うと、2人はすぐに意気投合した。 俺たちは同じ高校へ進学し、ずっと友情を暖めてきた。兄貴に言えない事も、折戸に言えない事も、大樹は全部知っている。 その上で俺を心配し、初めてそんなセリフを吐いたのだった。
「俺は……制服が懐かしいよ」
それは曖昧な言い回しだったが、大樹も俺も言葉の意味はよく分かっている。
少しの間会話が途切れると、彼は長いまつ毛を揺らしてそっと目を伏せた。

 ずっとこのままではいられない。それは承知しているけれど、どうしたらいいのか全然分からない。
家には帰りたくない。でも学校には行きたい。
ただ学校へ顔を出した事が知れると、兄貴が俺を連れ戻しに来るのは目に見えている。 強引なあいつの事だから、いきなり教室へ乗り込んでくる事だってあり得なくはない。
かといってこのまま休み続けていると、いずれは留年か退学かの選択を迫られる事になるだろう。
俺はそれだけは避けたかった。兄貴と過ごす歪んだ時間と違って、学校生活はとても楽しかったからだ。 できればこのまま学校を継続し、最後は大樹と一緒に卒業したかった。


 小さく息を吐いた時に、突然それは起こった。
フラッシュバック。俺は最近、この現象に悩まされている。
もう二度と思い出すまいとしていたのに、兄貴との最初の夜の記憶が胸の奥に浮かんできた。
両の掌に、じわじわと汗が滲む。こうしてあいつと離れていても、俺はこの苦しみからずっと逃れられないんだろうか……

 あの時俺は、小学6年生だった。世の中の事なんか何も知らない、ウブでやんちゃなガキだったんだ。
初めて兄貴に襲われたのは、夏の静かな夜の事だった。
夜中にあいつに起こされるまで、俺はとてもいい夢を見ていたような気がする。 でもそれがどんな夢だったのかは、いくら考えても思い出せない。
後から考えると、その前触れはあったんだ。
いつだったか、風呂上りにタオルで体を拭いている時、不意に兄貴が近付いてきた。
バスタブのお湯は温かったはずなのに、その時体は火照っていた。なんだかとても熱っぽくて、まるで全身が燃えているかのようだった。
「兄貴も風呂に入る?」
俺は乾いたタオルを足に滑らせながら、兄貴にそう言った。
でもあいつは、黙って俺を見つめるだけだった。水の滴る若い肌を、何も言わずにじっと眺めていたんだ。
あの時は、メガネの奥の鋭い目に何か異様なものを感じた。 それが何なのかは分からなかったけれど、俺はなんとなく怖くなり、濡れた体のまますぐにその場を立ち去った。

 そして、あの夜がやってきた。俺はその時まで、フカフカの布団に包まって夢を見ていたはずだ。
その幸せな夢が突然終わってしまったのは、低く掠れた声で名前を呼ばれたからだった。
「幸也」
それは本当に小さな声だったのに、俺はあっさりと目を覚ました。きっと、眠りが浅かったせいだろう。
兄貴の声を聞いて目を開けた時、静かな闇の中に黒い塊が見えた。 そのまま数秒が過ぎると、それが兄貴のシルエットである事がはっきりと分かってきた。 兄貴はベッドの傍らに立って、寝ている俺を見下ろしていたのだった。
でも、何故あいつがそこにいるのか不思議でならなかった。兄貴が夜中に俺の部屋へ来た事なんか、それまで一度もなかったからだ。
「どうしたの?」
それを言い終わるか終わらないかのうちに、体に重いものが圧し掛かってきた。
突然胸が苦しくなり、呼吸が途切れ途切れになる。
最初は幽霊に襲われたのかと思ったけれど、顔のすぐそばで兄貴の匂いがした。 そして俺は、自分の上にあいつがいる事を一瞬にして覚ったのだった。
「何するの!?」
俺はかなり大きな声を出したつもりだった。でも本当は、囁くほどの声しか出ていなかっただろう。
それでも兄貴は、急いで俺の口をふさいだ。渇いた唇の隙間から乱暴に舌を突っ込まれ、小さな歯にそれが当たった。
俺は自分の身に何が起こったのか分からなくて、ただ戸惑うばかりだった。 そこまでは本当にあっという間で、兄貴は俺に考える隙を与えなかったんだ。

 それから、無防備な舌を軽く噛まれた。今思うと、あの瞬間からすべてが始まったような気がする。
誰かに舌を噛まれるような経験は、もちろん初めてだった。でも俺は、あの時感じてしまったんだ。
温いお湯に浸かって体が火照った時と同じように、全身が燃えるように熱くなった。
兄貴はきっとそれが分かったに違いない。あいつは俺の体温が上昇した事で、弟が感じている事を理解したはずだ。
行為の是非はどうあれ、あの時はとにかく気持ちが良かった。
俺は兄貴のキスを欲して、あいつの頭を引き寄せた。清潔なパジャマは、生温い汗で湿っていた。
深い闇の中に響くのは、ベッドの軋む音だけだった。でもそのうちに、高鳴る心臓の音がその音をかき消していった。
兄貴が俺の膝に、硬いものを押し付ける。俺は時々膝を浮かせて、それをグイッと突いてやった。
なんだか腰の下がむず痒くて、とても変な気分になった。頬に唾液が零れ落ち、それはゆっくりと首筋に流れていった。
それ以後は、何をされても快感が得られた。
胸を撫でられるだけで全身に電気が走り、パンツを脱がされた時はあまりの興奮に気絶しそうになった。
「声を出すなよ」
行為の最中に兄貴が喋ったのは、その一言だけだった。
あいつが胸を離れると、圧し掛かる重みが消えてスッと体が楽になった。 兄貴が迷わずそうしたのは、俺が逃げない事を確信したからだろう。
確かにあの時の俺は、抵抗する気なんか更々なかった。

 膝を左右に広げられ、大きく股を開かれる。あんな事が平気だったのは、きっと暗闇のせいだった。
マックスに膨らんだペニスを、ゆっくりゆっくり擦られる。そして同時に、尻の穴にグイグイと指を突っ込まれる。
俺はそのすべてを欲して、そのすべてを受け入れた。いとも簡単に、兄貴の手に堕ちてしまったんだ。
あの夜性的快感を覚えた俺は、それ以後あいつとの行為にどっぷり浸かっていった。 でもそれが、後々自分を苦しめる事になった。