23.

 よりによって、その日は木曜日だった。 その頃兄貴は大学生だったが、木曜日だけはいつも早くに帰宅していた。
父さんは不動産屋の経営で忙しく、母さんもその仕事を手伝っている。
両親は夜8時を過ぎないと家へは帰ってこない。だから俺たち兄弟は、その時間まで2人きりだった。
それまで木曜日は、俺の1番好きな日だった。学校から帰ると兄貴が家にいて、すぐにいい気持ちになれたからだ。
でもその日は、帰宅するまで気が重かった。大樹の言葉が耳から離れず、心の整理が付かなかったんだ。
そのままの気持ちで兄貴に会えば、更に混乱する事は目に見えていた。それでも俺は、あいつの待つ家へ帰るしかなかった。
遠くの方に白亜の館が見えてくると、普段とは違う心のざわめきを感じた。
その辺りには立派な家が立ち並んでいたけれど、田代の家はその中でも一際目立っていた。 やたらと天井が高い造りのため、2階建てでありながらちょっとしたビルのように背か高く、まるで他の家を見下ろしているかのようだ。
昔はそれが誇らしく思えたけれど、今はそうは思わなくなっていた。
それは父さんが建てた家であり、今後は兄貴が守っていく家だ。 そう考えると、俺が誇りに思う理由なんか1つもない。


 いつもより少し遅れて帰宅すると、玄関に黒い革靴が置いてあった。 俺は兄貴が出かけている事を期待していたが、あいつはやっぱり家にいた。
ゆったりした動作でスリッパをはき、らせん階段を1段1段上っていく。
2階の廊下へ出ると、薄気味悪い鳥の絵が目に入った。それは父さんが気に入って飾った、ちょっと有名な画家の絵だった。 こげ茶色のでかい鳥が、木の枝から飛び立つ瞬間の絵だ。
俺は昔からこの絵が苦手で、なるべく見ないように心がけていた。時々何故か目が光って、なんとも言えず不気味だったからだ。
「幸也か?」
人の気配を感じたのか、奥の部屋から兄貴が顔を出した。あいつのメガネが冷たい光を放ち、俺は一瞬凍り付いた。
「何してる? 早く来いよ」
あの時は、すごく怖かった。何が怖いのか分からなかったけれど、何故だか怖くてたまらなかった。

 あいつの部屋は雑然としていた。 大きな机の上には大量の本が乗っかっていたし、カーペットの上には段ボール箱が山積みにされていた。
兄貴は父さんの後継ぎだから、大学で経済を学びながら、会社の資料を作る作業も手伝っていたんだ。 山積みにされた段ボール箱には、それに必要な書類がたくさん入っているようだった。
「どうした? 顔色が悪いな」
クルクル回る椅子に腰掛けて、兄貴が小さくそう言った。
8畳の部屋には物が散乱しているのに、窓際のベッドだけはすべてが綺麗に整えられていた。
昨日までの俺なら、カーテンもろくに引かず、今すぐズボンを下ろしたはずだ。 でも今日はそうはいかなかった。俺は昨日までの自分を思い出して、その行為をとても恥ずかしい事のように感じていた。
確かにそれまでの俺はあまりにも軽かった。兄貴と向き合うとすぐに愛撫を求め、躊躇なく裸になっていたんだから。

 兄貴はどっしりと構えて、しばらくこっちを見つめていた。薄い黄色のトレーナーが、やけによく似合っていた。
弟の様子がおかしい事に、あいつはとっくに気付いていただろう。
あの時俺は、どうすれば良かったんだろうか。
少し気持ちが落ち着くまで、外で頭を冷やすべきだったのか。それとも動揺を隠すために、愛想笑いでも浮かべていれば良かったんだろうか。

 いろんな思いはあったけれど、最終的には昨日と同じ事が起こった。 それから5分もしないうちに、俺はベッドの上に寝そべっていたんだ。
赤い夕日はカーテンに遮られ、8畳の部屋は小さな闇に包まれた。 昨日と唯一違っていたのは、自分では制服を脱がず、兄貴が俺の着ているものを1枚残らず剥ぎ取った事だけだった。
そこに愛があるかどうかは別として、結局俺は性的欲求に負けてしまった。
耳に息を吹きかけられると、すぐにあそこが硬くなった。
兄貴の舌が、首筋を這う。少し気持ちが良くなって、不意に小さく喘いでしまう。
俺はもうすっかり飼い慣らされていたんだ。
小学6年生の時から当たり前のように快楽を与えられ、当たり前のようにそれを受け取ってきた。 つまりは、毎月もらう小遣いと同じようなものだ。 愛されていてもいなくても、今更それを手放すなんてとても無理だと思った。
でも心の中では信じていたかったんだ。兄貴は俺を愛してくれていて、だからこうして抱くんだと。
だって兄貴はバカじゃない。大樹の言った事が世の中の常識なら、それを知らないはずはない。
俺たちは、無意味な行為を繰り返してきたわけではない。そうじゃないと、あまりにも空しすぎる。
「ねぇ、早く」
俺は先を急ぐように言った。
するとあいつは、俺を見下ろして微笑を浮かべた。少し唇を歪めるだけの、渇いた笑いに過ぎなかったけれど。

 兄貴はうるさそうに前髪をかき上げ、俺は静かに目を閉じた。
あいつは俺が欲しかったものを、いとも簡単に与えてくれた。
多少の痛みと共に、下半身に伝わる異物感。体内に兄貴を確認すると、興奮して頬が熱くなってくる。
ペニスの先に指が触れた時、俺は思わず身をよじった。
どうしてなのかは分からないけれど、その日は特に敏感だった。 兄貴の汗の匂いと、湧き上がる興奮。俺はそれに酔いしれた。そして、いつも以上に気持ちが高ぶっていた。
体を反らせて腰を浮かせ、兄貴を奥の方まで招き入れる。我慢できずに声を出しても、あいつは別に怒らなかった。
「感じてるのか?」
そんな事を聞かれたような気もしたが、答える余裕なんかありはしない。
叫んで、腰を振って、今そこにある快楽を存分に楽しむ。
行為の最中は、本当にそれだけだった。学校で起こった事も、大樹の言葉も、セックスをしている時には全部無意味だったんだ。


 2人とも射精が済むと、兄貴はすぐに立ち上がって裸のまま部屋を出て行った。 熱いシャワーを浴びて、体の汗を洗い流すためだ。
それまで気にした事はなかったのに、あいつのその行動が急に腹立たしく思えてきた。
俺は暗い部屋に取り残され、乱れたベッドに寝そべって高い天井を見上げている。
胸の上にはまだ精液が飛び散ったままだ。そして体内には、未だに興奮が残っている。
なのにあいつは、さっさと出て行った。きっと今頃は、せっけんを泡立てて全身を洗っているに違いない。
俺とのセックスの余韻を、そんなに早く消し去りたいのか? せめて最後に抱きしめて、一言囁くヒマもないほどに?
胸に飛び散った精液が、時間を追うごとに冷たくなってくる。
俺はひどく感傷的になり、声もたてずに泣いた。 大粒の涙が次から次へと溢れ出て、頬から耳へと流れ落ちていった。
あいつとのセックスの後に、これほど悲しくなったのは初めてだった。
兄貴は俺を愛してなんかいない。それは最初から、なんとなく分かっていたような気がする。
だとしたら、兄貴は何故俺に手を出したのか?
その答えは簡単だった。すぐそばにいる弟を手なずけて、容易く快楽を得るためだ。