24.

 折戸と疎遠になって、2週間が過ぎた。俺はどうにも落ち着かなくなり、ついに彼の会社へ電話をかける事にした。
こういう事をするのは、本当は気が引ける。でも携帯を鳴らしても一向に繋がらないから、もうこうするしかなかったんだ。
「もしもし、折戸です」
久しぶりに聞く彼の声は、妙に事務的な印象を受けた。よく考えてみると会社の電話だから、それは当たり前なんだけど。
「俺だよ。今すぐ裏のビルに来て。すぐに来ないと、そこへ乗り込んで暴れてやるからな」
それだけ言うと、有無を言わせず電話を切った。
折戸の会社は高層ビルだが、裏手のビルは3階建てのこじんまりしたビルだ。
俺はそこの1階で、ガラスのドア越しに外を眺めていた。 夜の街には、冷たい空気が流れている。細い隙間風が、それを俺に伝えてくれていた。
今すぐ来いと言っても、1分や2分で折戸が現れるはずはなかった。 それでもこっちへ近付く人影があると、つい彼ではないかと期待してしまう。
3階建てのビルにはエレベーターがないらしく、時々階段を下りてくる足音が背後に響いた。
そのまま外へ出て行く人は、場違いな俺の姿を訝しげに見つめた。 1階の喫煙所でたばこを吸う人も、横目でチラチラとこっちを観察しているようだ。
その人の様子は、ガラスのドアにはっきりと映っている。 彼はモノトーンのスーツを着た、髪の毛の薄い男だった。
白い煙を吐きながら、1回こっちを見て、それから階段の方へ目をやり、またすぐ俺に視線を向けてくる。
多分年は40歳ぐらいで、そこそこ金は持っていそうな雰囲気だ。 俺に興味を引かれているようだから、誘えばホイホイ乗ってくるかもしれない……

 無意識のうちにそんな事を考える自分が、なんだかとても嫌だった。
こんな癖が付いてしまったのは、間違いなく家出した後からだ。
俺が家を飛び出した後、兄貴は死なない程度の金を定期的に俺の口座へ振り込んでいた。 でもそれだけでは資金は不十分だった。だから俺は、この身を売って食いつなぐ事を考えた。
金が不足すると、飲み屋街へ行ってカモになりそうな男を物色する。
実入りの良さそうな酔っぱらいに声をかけると、案外あっさりと交渉が成立した。
俺が男であろうとも、それを問題視する人はほとんどいなかった。 それどころか、若い男とのセックスに興味津々で、皆がギラギラと目を輝かせていた。
折戸も一応は、その中の1人だった。 でも彼だけは、他の奴とは絶対的に違っていた。そうじゃなければ、俺たちはたった一晩だけで終わっていたはずだ。


 折戸は15分ほど俺を待たせた。それはとても長い15分だった。
俺はずっと避けられていたから、彼が本当に来てくれるかどうか心配だった。 そんな気持ちで待つ15分は、1時間にも2時間にも匹敵するほど長く感じた。
だから彼が来た時は、心の底からほっとしたんだ。でも俺は、そんな素振りは絶対見せないようにしていた。
折戸はガラスのドアの向こうに立って、そっと俺に微笑みかけた。 白い息がガラスを一瞬曇らせ、彼の繊細な指がすぐにそれを拭き取る。
2週間ぶりに見る折戸は、何も変わっていなかった。強いて言うなら、髪が少しだけ伸びていたかもしれない。
濁りのない目と、柔らかそうな唇。 彼はいつも透明感のある、優しいオーラを放っていた。それは最初に会った時から、一切変わっていない。
俺たちはろくに言葉も交わさず、すぐにタクシーに飛び乗った。 運転手に告げた行き先は、彼の借りてくれたアパートだった。
冬の空はとても綺麗で、幾つもの星が瞬いていた。

 アパートの部屋に入ると、折戸はしばらくキョロキョロしていた。
その頃になると、俺の部屋はだいぶ体裁が整っていた。 床で寝転がるために巨大なクッションを置いたり、雑誌の切り抜きを壁に飾ったりして、一応自分なりにアレンジしてみたわけだ。 でも彼は、それとはまったく別な事に感心した様子だった。
「随分綺麗に片付いてるね」
折戸はそう言いながら、コートを脱いで素早くそれを丸めた。
確かに部屋の中は整頓されていた。そうしておいたのは、兄貴との記憶がトラウマになっているからだ。
俺はあの雑然とした部屋でセックスをするのがしだいに苦痛になっていった。 いつもベッドだけは綺麗に整っていたけれど、それがとても嫌だったんだ。
大切なのはベッドでの行為だけで、その他の部分は汚れていても構わない。 あの部屋は、そんなあいつの心を表しているかのようだった。

 ふんわりしたクッションを手渡すと、彼は壁と背中の間にそれを挟んで座った。
あまり会話が弾まないので、テレビをつけて沈黙を消した。
彼の隣に座ると、繊細な指がすぐに手の届く位置にあった。でも俺は、安易にそれには触れられなかった。
まずは会えなかった時間を埋めないと、何も始まらないような気がしていた。
折戸はテレビを見るフリをしていたが、俺はその横顔をじっと眺めていた。
彼は決してかっこいいわけではなかった。 兄貴ほどきりっとした印象もないし、大樹ほど整った顔もしていない。
ただ、誰よりも優しそうな雰囲気を持っているんだ。怒ると少し怖いけれど、それも兄貴に比べればたいした事はない。
とにかく折戸がそばにいると、なんとなく安心する。俺はいつもその優しさに甘えて、わがままばかり言ってきた。
「今夜は泊まっていってよ」
そして今日も、わがままの上積みをする。折戸は少し困ったような顔をして、やっとこっちを見てくれた。
「でも、着替えを持ってないし……」
「クローゼットにアルマーニのスーツがあるよ」
泊まれない言い訳を即座に打ち消すと、彼は頬を赤らめた。 アルマーニのスーツという一言が、2人の最初の夜を連想させたようだ。
「ちゃんと朝ご飯も作ってやるよ。俺、卵を焼くのがうまいんだ」
せっかく俺を見てくれたのに、折戸はまたすぐに目を逸らした。
テレビのスピーカーから、大げさな笑い声が響いてくる。でも彼は笑っていない。そして俺も、笑う気にはなれなかった。

 すぐに思い通りの返事が聞けず、少しずつイライラが募ってくる。
彼はまだ困ったような表情を崩してはいない。
1つ大きく息を吐いて、フローリングの床に目を落とした。照明の光が反射して、床の一部分だけが真っ白に見えた。
「俺の事、軽蔑してるんだろ」
そんな事を言うつもりはなかったのに、勝手に口が動いてしまった。 これ以上言ってはいけないと思いながら、どうしても自分を抑える事ができない。
「金に困った時、俺がどうやって食いつないでたか分かってるだろ? あんたの思ってる通りだよ。 適当なオヤジを掴まえて、金と引き換えに体を売ったのさ」
「……」
「兄貴とは数え切れないほど寝たし、行きずりの男と何回やったか分からない。 こんなんじゃあ、あんたに軽蔑されても仕方ないと思うよ。だから俺、あんたの前から消えたんだ。 それなのに、どうして放っておいてくれなかったんだよ。 俺はあんたを忘れようとしてたのに、あの時どうしてしつこく電話してきたんだ?」
床の白い一点を見つめていると、また嫌な事を思い出しそうな気がした。 だから俺は顔を上げて、きつく折戸を睨み付けた。
「そのくせ今度は全然電話に出てくれなくなるし……だったら最初から放っておいてくれれば良かったのに」
折戸が何を考えているのか、俺には分からなかった。
時には求められ、時には突き放される。そこには気持ちの変化があるはずなのに、彼は多くを語らない。
俺の立ち居地は、いったいどこなんだろう。どんなに心地が良くても、彼のそばにいてはいけないんだろうか。
「君の行方が分からなくなった時、僕が何回も電話したのは、君の事が心配だったからだ……」
折戸はぽつりぽつりと話し始めた。
彼の声は、テレビの音にかき消されそうなほど低かった。その目はどこか遠くを見つめている。
「ちゃんと食べてるのか、寝るところはあるのか、いつも心配でたまらなかったよ」
「……そう」
「この部屋を借りたのは、やっぱり正解だった。 もうそういう心配をしなくて済むし、これ以上君に嫌な思いをさせないで済む」
濁りのない目が、ゆっくりゆっくり閉じられる。その時彼は、まぶたの奥に何を浮かべていたんだろう。

 俺は反射的に彼の手を握った。 折戸の手はとても冷たかった。まるで氷のように、芯まで冷え切っているようだった。
「好きでもない人と寝るのは嫌だろ? 幸也はもうそんな事しなくていいんだよ」
とても低くて、優しい声だった。
なんだかすべてを見透かされているような気がした。 俺はもう行きずりの男と寝るのはうんざりだったんだ。そして裏切り者の兄貴に対しても、同じ思いを抱いていた。
「じゃあ、僕は帰るよ」
彼は突然立ち上がった。それはまったくの不意打ちだった。
話はまだ終わっていない。このまま彼を帰したら、もう二度と会えなくなるかもしれない。
「待てよ!」
俺もすぐに立ち上がった。 その瞬間に、慌ててリモコンを踏みつけた。するとボタンが反応して、突然テレビの電源が落ちてしまった。
折戸は丸めたコートを腕に抱えて、すでに靴を履こうとしている。
俺はその背中に抱きついて、必死に彼を引き止めた。
足の裏には、硬い物を踏んだ感触がまだ鮮明に残っている。 大きな背中の温かさを感じた時、丸めたコートがバサッと落ちた。折戸の背中は微かに震えていた。
「俺はあんたが分からないよ。何を考えているのか、全然分からないんだ」
2週間ぶりにやっと会えたのに、俺たちの距離は遠いままだった。
もっと彼に近付きたい。その欲求が、どんどん大きくなってくる。でもどうやって近付けばいいのか、自分では分からなかった。
「親友でも兄弟でもなく、恋人でもない。君はただのセックスフレンドだ。 そんな君に、僕の気持ちを分かってほしいなんて思わないよ」
セックスフレンド。折戸は今、間違いなくそう言った。
それはとても穏やかな言い方だった。そんな残酷な一言を、何故こんなに柔らかい口調で言えるんだろう。
急に体の力が抜けて、彼が俺の手を離れていった。
靴のかかとを踏んだまま、逃げるように出て行くその人の背中を、俺は黙って見送るしかなかった。