25.

 リビングのソファーで兄貴と寝るなんて、俺たちはあまりにも大胆だった。 今夜に限って、両親が早く帰ってくるかもしれないのに。
でも、とても気持ちが良かったんだ。
兄貴が中へ入ってくると、柔らかいソファーに体が沈む。 どこまでも堕ちていきそうなその感触が、俺はたまらなく好きだった。
「あまり締め付けるなよ。すぐいきそうだ」
兄貴はメガネを外してテーブルの上に置いた。それは、激しいキスをする前触れだった。
大きな手が頬に触れ、唇の隙間から強引に舌が突っ込まれる。
それをぎゅっと噛む時に、尻の穴に思い切り力を入れた。 兄貴が締め付けるなと言う時は、そうしてほしい時に決まっているからだ。
ペニスの先を掌で包まれると、こっちが先にいきそうになる。
だんだん体が熱くなって、頭の中が真っ白になり、突然その時はやってくるんだ。


 セックスが終わると、兄貴はすぐに柱時計を見た。
いつもは早速シャワーを浴びるはずなのに、今日はさっさと洋服を着てしまう。
「これから客が来るから、お前もすぐに服を着ろ」
「え?」
「いいから早くしろ。時間がないぞ」
あいつはあっという間に身なりを整えた。 折り目の付いたズボンをはき、サッとジャケットを羽織ったかと思うと、もう鏡の前へ行って髪をとかそうとしている。
「これからいったい誰が来るっていうんだよ」
その時、柱時計が7時を知らせる鐘を鳴らした。 事情はよく分からなかったけれど、俺も追い立てられるように急いで洋服を身に着けた。
兄貴は7つの鐘が鳴り終わらないうちに、花瓶の花をチェックしたり、ソファーの上に綺麗にクッションを並べたり、テーブルに汚れがないかどうかを確認していた。 普段はそんな事、絶対しない奴なのに。
「そんなに大事な客が来るの?」
俺はベランダの横に立ち尽くし、せっせと動く兄貴にもう一度尋ねた。 ところが返事を聞く前に、来客を知らせるインターフォンの音色が響いた。
これはすべて、俺が家を出る前の日の出来事だ。

 あいつは俺の横を擦り抜けて、すぐに玄関へ向かった。 なんだかとても慌しくて、どうにも気持ちが落ち着かなかった。
「あの態度は何だよ……」
ブツクサ文句を言いながら、熱帯魚の泳ぐ水槽へのんびりと近付く。 それから彼らに餌をやって、ドアの向こうへ聞き耳を立てた。
その時、微かに女の人の声がした。陽気に笑うその声が、2人の足音と共にこっちへ向かってくる。
兄貴の客が女だとしても、俺は別に気にならなかった。
大学を卒業した年、あいつは父さんの会社へ正式に入社していた。 それからは時々こうして仕事絡みの客が来たので、彼女もそのうちの1人だと思っていたんだ。
「失礼します」
しばらくすると、背中の後ろでドアが開いた。そして俺は、ゆっくりと振り返った。
兄貴と一緒にリビングへ来た女は、想像していたよりも若かった。俺より少しは年上だろうけど、せいぜい19か20歳ぐらいに見えた。
彼女はお嬢さんっぽいワンピースがとても似合っていた。髪が短くて、清楚で、ひまわりのように明るく微笑む人だ。
「あなたが幸也くん?」
そう言われて、咄嗟に兄貴の顔を見た。あいつはまったくの無表情だった。
そのままポーカーフェイスを崩さずに、奴は恐ろしい事を宣言したのだった。
「幸也、彼女は清美さんだ。お前のお姉さんになる人だから、仲良くしろよ」
お姉さん?
急にそう言われても、最初は全然意味が分からなかった。
俺はぽかんと口を開けて、漠然と清美さんを観察した。小さな唇が、濡れて光っていた。そして頬は、少しだけ赤みを帯びている。
「俺たち、結婚する事にしたんだ。清美のお腹にはもう子供がいる。 すぐに式場が取れそうもないから、結婚式は子供が生まれた後になると思うけど……」
それはあまりに唐突な告白だった。
でも兄貴の言う事が嘘じゃないのはすぐに分かった。清美さんがあいつの傍らで、とても幸せそうな笑顔を振りまいていたからだ。
彼女は少し視線を落として、右手で自分の腹をさすった。 ゆったりしたワンピースを着ていたのは、恐らくそこが膨らみ始めているせいだった。


 俺はその場にいるのが耐えられず、すぐにリビングを飛び出した。
急いで2階へ駆け上がる時、頭がクラクラして何度も階段を踏み外しそうになった。
やっとの思いで自分の部屋へ逃げ込むと、途端に大粒の涙が溢れ出してきた。
俺は布団に潜り込み、1人ぼっちで死ぬほど泣いた。あの時は、ずっと体の震えが止まらなかった。
清美さんが来る直前まで、俺たちは夢中でセックスをしていた。それが突然あんな事を言われて、心が乱れないはずはなかった。
兄貴の体の一部が、今も自分の中に残っているような気がした。残酷なセックスの余韻が、まだ体中にひしめいていたんだ。
俺たちは、ついさっきまで舌を絡め合っていたじゃないか。体を1つにして、2人で天国の扉を叩いたじゃないか。
兄貴と俺は、何度もそうしてきたのに。今までずっと、そうしてきたのに……
あの時1番ショックだったのは、あいつが俺以外の人と寝たという事だった。
例えそういう事があったとしても、その事実を知らなければ幸せでいられた。 万が一それに気付いても、たった一度の浮気なら許す事もできた。
でも、もう手遅れだった。兄貴はもう俺の兄貴じゃない。あいつは清美さんのものになってしまったんだ。
彼女の腹をさする仕草が、目に焼き付いて離れなかった。あと何ヶ月かすれば、あの人は子供を生む。
そんなの、俺にはとても耐えられない。
いつかそのガキと2人きりになる事があったら、思わず殺意を抱いてしまいそうだ……

 そのまま延々と泣き続けて、かなりの時間が過ぎたと思う。
枕はすでにびしょ濡れだった。何度も目を擦ったから、瞼が腫れているのもなんとなく分かった。
階段を上る足音が、遠くの方から響いてくる。俺は布団の下で寝返りを打ち、急いでドアに背を向けた。
両目を硬く閉じて、拳をぎゅっと握り締め、奥歯を噛んで体の震えを抑える。
兄貴は間違いなくここへやってくるだろう。その時あいつは、何を話すつもりなんだろうか。
ガチャッ……
部屋の前で足音が止まったかと思うと、ノックもなしにドアが開いた。
すぐそばに人の気配を感じた時、兄貴と初めて寝た日の事を思い出した。 でもあの時と今では、まったく状況が違っていた。
「幸也」
頭の上に降り注がれる声は、異常なほど冷静だった。
こいつには感情というものがないんだろうか。俺にそう思わせるほど、その声は落ち着いていた。
「清美との事は気にするな。彼女がここへ来るのは、子供が生まれた後だ。 あいつと一緒に暮らすようになっても、俺たちの関係は変わらない」
それを聞いた時は、頭がおかしくなりそうだった。
こいつは何を言っているんだ。あの女と生まれてくるガキをここに住まわせ、同じ屋根の下で俺を抱くつもりなのか?
「約束するよ。どんな事があっても、俺とお前の関係は変わらないから」
握っていた拳が自然と解かれ、知らないうちに両目が開いた。
兄貴はあの時、どんな顔をしていたんだろう。今となっては、それを確かめる術はない。
「俺たちの関係って……いったい何だよ」
それは俺の独り言だった。心の声が、喉の奥から勝手に飛び出したんだ。
ところが兄貴には、ちゃんとそれが聞こえたようだった。 だからこそ、間髪入れずにあんな返事が返ってきたんだ。今までと同じく、異常なほど冷静な声で。
「セックスフレンドだな。体だけの関係だから、そうとしか言いようがない」
セックスフレンド。
兄貴と離れる決断をしたのは、その言葉を聞いた時だった。
まさか折戸の口から同じ言葉を聞くなんて、俺は夢にも思わなかった。