26.
コンコン、とノックする音が廊下から響いた。
折戸が戻って来たのかもしれない!
俺は淡い期待を抱いて、すぐに玄関のドアを開けた。するとそこには、大樹が立っていた。
「メシまだだろ?」
彼はにっこり笑って白いレジ袋を俺に差し出した。
大樹が来てくれたのは嬉しかったけれど、期待が裏切られて少し悲しかった。
「俺で悪かったな。そんなに残念そうな顔するなよ」
そう言いながら、彼は部屋へと上がり込んだ。
その時俺は、いったいどんな顔をしていたんだろう。
それから俺たちは、大樹が買ってきてくれたハンバーガーを2つずつ食べた。
大樹は偶然折戸のいた場所に腰掛けた。彼と同じように、壁と背中の間にクッションを挟んで座ったんだ。
テレビのバラエティー番組を見て笑ったり、ふざけた話をしたりして、俺たちはしばらく楽しい時間を過ごした。
大樹は彼女の事とか学校で起こった事を、おもしろおかしく聞かせてくれた。
そんな時は、学ラン姿の彼が本当に羨ましく思えた。俺も学校へ行っていれば、おもしろい出来事の真っ只中にいられたのに。
でも彼を羨ましく思う理由はそれだけじゃない。
大樹は昔から女にもてた。中学生の頃から今に至るまで、いつも女の熱い視線を浴びていたんだ。
それもそのはずだった。大樹はいい奴だし、ルックスも抜群だ。涼しい目元や高い鼻は、誰にとっても魅力的だろう。
ところが彼は、ずっと硬派で通っていた。女に告白されても断り続け、いつも男とばかりつるんでいたんだ。
そんな大樹が、2年前に突然彼女を作った。その相手は、彼の初恋の人だった。
彼女の名前は加代子と言って、大樹とは小学校が一緒だったらしい。
彼は小学4年生の時から、ずっとその子が好きだった。でも学区の関係で、2人は別々の中学校へ通った。
その後はしばらく疎遠になったらしいけれど、高校1年生の時にバッタリ再会し、大樹の方から告白して見事に初恋を実らせたんだ。
それを知った時は、本当に羨ましかった。
10歳の時から6年間も同じ人を思い続け、大樹は一途な思いを叶えた。
それに比べて、俺はどうだ。12歳の時から兄貴とやりまくって、それでいて愛されもせず、今は結局このザマだ。
大樹はハンバーガーを食べ終わり、口の周りに付いたケチャップをティッシュで拭った。
そんな何気ない仕草の最中に、彼はドキッとするような事を言った。
「幸也のスポンサー、折戸だっけ? その人、さっきまで来てたのか?」
「……え?」
俺はただただ驚いて、大樹の目を見つめていた。
彼にどうしてそれが分かったのか、まるで検討が付かなかったからだ。
「まぁいいや」
赤く染まったティッシュが彼の手を離れ、ゴミ箱の方へ飛んでいく。
でもちょっとコントロールが悪くて、それは床の上に転がった。
何故かは分からないけれど、それを見た時急に涙が出てきた。
ここを去って行く折戸の背中が、もう手の届かないところへ行ってしまったような気がしていた。
「おい、どうしたんだよ!?」
慌てふためく大樹の声が、何度も耳に響き渡る。
もうこれ以上1人では抱え切れない。しゃくり上げて泣きながら、荒んだ胸の内を全部彼にぶちまけた。
2週間ぶりに会えたのに、折戸はすぐに去って行った。話したい事がたくさんあったのに、ろくに何も話せなかった。
そして去り際に、強烈な言葉を浴びせられた。
「君はただのセックスフレンドだ。そんな君に、僕の気持ちを分かってほしいなんて思わない」
自分で話している間にも、その声が頭の中をグルグルと回っていた。
あんなふうに言われた事は、本当にショックだった。
でも、彼に捨てられても仕方がないと思った。
出会った時からひどい事ばかりしたし、生意気な事も言ったし、いつも振り回してばかりいた。
いっぱい迷惑もかけてしまったし、その上金も使わせた。
それを考えれば、全部自分が悪いという事は明白だった。
それでもやっぱりショックだった。俺は誰にも愛されていないし、誰にも必要とされていない。
兄貴は清美さんを選んだし、折戸は静かに去っていった。
大樹はしばらく黙って話を聞いてくれた。
彼を困らせている事は分かったけれど、それでも涙が止まらなかった。
子供のように泣いてしまった事が、無性に恥ずかしい。でも、もう自分をコントロールする事ができなかった。
このまま一生泣き止まず、そのうちに狂ってしまいそうな気がする。
大樹の言った事は正しい。
愛のないセックスは無意味だ。そんなものでは、人は満たされない。
ただ身が削られて、心が空っぽになっていくだけだ。
「幸也、大丈夫か?」
不意に肩を抱かれて、体がビクッとした。周りの景色が滲んでしまい、何一つはっきり見えやしない。
でも大樹の手の温かさだけはよく分かった。彼はとめどなく流れ落ちる涙を、指で必死に拭ってくれたんだ。
「ずっとそばにいるよ。俺は幸也の親友だから、一晩中そばにいてやるよ」
そんなふうに言われると、ますます涙が止まらなくなった。
俺は折戸の親友にも恋人にもなれなかった。だから彼は去っていってしまったんだ……
その夜大樹は、本当に泊まっていってくれた。
ロフト式の部屋の2階は、案外広くて2人が寝るには十分だ。
布団は一組しかなかったから、毛布とクッションを分け合って、お互い適当な寝床を確保した。
「うわっ、この部屋電気消すと真っ暗じゃん」
確かにその通りだった。一旦照明を落とすと、ここは真っ暗闇に包まれる。
大樹は近くで寝ているはずなのに、その姿はまったく見えなかった。
どうせ明日もヒマだから、枕元に置くライトでも買いに行こうかな。
ふとそんな事を考えた時、大樹が静かに語り始めた。
「幸也の話を聞いて思ったんだけど……なんちゅーか、お前も折戸も鈍感だなぁ」
彼はきっと、俺の気持ちが落ち着くまで話すのを待っていてくれたんだ。
この時俺は、やっと少し冷静さを取り戻していた。
「折戸って奴は、幸也の事が好きなんだよ」
「……まさか。そんなはずないよ」
ため息まじりにそう言うと、彼は暗闇の中でクスクスと笑った。俺は何がいったいおかしいのか、全然理解できなかった。
「だからお前は鈍感だっていうんだよ。
折戸の言った事を順序だてて考えれば分かるだろ? あの人は、幸也が今でも兄貴を好きだと思い込んでるんだよ。
だからもうお前とはやらないって決めたんだ。
本当は兄貴が好きなのに、自分の相手をさせるなんてかわいそうじゃん。
あの人はそう思って身を引いたのさ」
「……何言ってるか分からないよ」
「まぁそうだろうな。所詮恋は盲目なのさ」
「大樹、お前何が言いたいんだ?」
「簡単な事だよ。幸也は折戸の事が好きなんだろ?」
ピシャリとそう言われて、絶句した。急に心臓がドキドキして、言葉を失ってしまったんだ。
この胸の高鳴りはいったい何なんだろう。これまで経験した事がないほど、心臓の動きが早くなっている。
「そうじゃないなら、折戸がどこ行こうと関係ないじゃん。
別にお前がメソメソする必要はないだろ? 要するに、お前ら両思いって事だよ」
嘘だ。そんなの嘘だ。
彼は一度だって俺を好きだとは言わなかった。好きどころか、俺の事をセックスフレンドだって言ったんだ。
俺たちは、最初からずっと体だけの付き合いだった……
「いい事教えてやろうか?」
「……」
「俺さ、ここへ来る前に折戸とすれ違ったんだ」
「……」
「一度も会った事がないのに、どうしてすれ違った人が折戸だって分かったと思う?」
「……どうしてだよ?」
「あの人、何度か学校の近くに来てたんだ。すごく挙動不審だったから、強烈に覚えてる。
朝学校に来る生徒を、陰からじっと見つめてたんだよ。今思うと、幸也を探しに来てたんじゃないかな」
熱い胸に手を当てると、鼓動が伝わって掌が押された。
折戸がそんな事をしていたなんて、全然知らなかった。俺は彼の気持ちを、何も理解していなかった。
本当に信じていいんだろうか。折戸は、少しは俺を愛してくれているんだろうか。
「幸也の言う通り、あの人金持ちってわけでもなさそうじゃん。
それなのに無理してこんなアパートまで借りて、お前に尽くしてくれたじゃないか。
好きでもない奴のために、普通はそこまでできないぞ。あの人の気持ち、分かってやれよ」
真っ暗闇の中に、一筋の光を見た。光の向こうには、優しく微笑む折戸の姿がある。
俺は両手を伸ばして、彼を抱き締めようとした。でもその手は、悲しく空を切った。
会いたい。すごく会いたい。抱き締めて、キスをして、ずっと2人で一緒にいたい。
大樹に言われるまで、何も気付かなかった。
昔は兄貴の事で泣いたのに、今は折戸の事で泣いてしまう。でも俺は、いつからこんなふうに変わってしまったんだろう。
「寒い。悪いけど、そっち行くわ」
カサッと小さく音がして、大樹が隣に移動してきた。毛布の下で、彼の腕と俺の腕がぶつかる。
「こうやってくっ付いてれば暖かいだろ? 本当はあの人とくっ付きたいんだろうけど、今日は俺で我慢しろよ」
おどけた調子で、大樹が言った。その声は、さっきよりもずっと近かった。
「大樹、ありがとう」
「本当に世話が焼けるぜ」
「ごめん」
「許してやるよ」
自分が思っているよりも、ずっと俺は幸せなのかもしれない。こうしてそばにいてくれる親友がいるし、大好きな人もいる。
いったい他に、何を望むというんだろう。これ以上望んだら、罰が当たりそうな気がする。
「兄貴の事は、もう吹っ切れたか?」
「俺、本当に兄貴の事好きだったのかな? 今はもう、よく分からないよ」
「まぁ他に好きな人ができれば、そんなふうに思うのかもな」
そうか。人はこうして恋を重ねていくものなんだ。
誰かを好きになって、傷付いて、また別な人を好きになって、過去の傷をふさぐ。
そうやって隠した傷が完全に癒えた時、もうその痛みはすっかり忘れてしまっているんだ。
「でも、お前の兄貴の気持ちも少しは分かるぞ」
「ん? どういう事?」
「幸也は美形だからさ、手を出したくなる気持ちもなんとなく分かるよ」
平気でこんな会話ができるなんて、驚きだった。
大樹はいつも、大事な事は一度しか言わない。しかもその話を、ここぞという絶妙なタイミングで振ってくる。
美形という言葉だけは、それに相応しくないけれど。
「加代子が時々言うんだ。幸也くんはかっこいいよねーって。
そうやって焼きもち焼かせようとしてるんだろうけど、本気でジェラシー感じるよ」
「昔からもてまくってたくせに、よく言うよ」
「なぁ、俺がここにいるとムラムラする?」
何を思ったのか、大樹がやけに接近してきた。
熱い息を、首筋に感じる。彼はその時、俺の腕をぎゅっと掴んでいた。
「そんなわけないだろ? アホか」
呆れて吐き捨てると、話は更に続いた。
「お前が相手なら、一発ぐらいやっても構わないぞ」
闇の中に、一瞬静寂が走った。
そしてすぐに、大樹の体の震えが密着する腕からひしひしと伝わってきた。
彼は最初は笑いを堪えていたけれど、そのうち堪えきれなくなって大声で笑い始めた。
その時は、俺も釣られて一緒に笑った。
今夜は久しぶりに、いい夢が見られそうだ。