4.

 満員電車の中は不快だ。
仕事帰りで疲れているというのに、ぎゅうぎゅう押されて胸が苦しくなる。
吊り革を掴む手には、しっとりと汗が滲んでいた。 これから自分がどうなるのか予想がつかないから、その不安が汗になって掌にまとわり付くのかもしれない。

 K駅で途中下車をするのは今日が初めてだった。
満員電車を降りると、胸の苦しさから解放されてほっとした。でもそれは、もちろん一時の感情でしかなかった。
改札口を出て夕日を浴びると、再び不安が込み上げてくる。
僕は今日、無事に家へ帰れるんだろうか。それすらよく分からなくて、しばらくすると胃がキリキリと痛み始めた。
K駅を出ると、最初に見えたのはコンビニだった。その前を通り過ぎると、どこからか緑の匂いが漂ってきた。
僕は自分の鼻を頼りに、大きな道を左へ曲がった。すると少し離れたところに、広い駐輪場を発見したのだった。
これから僕は、例の少年に会いに行く。
彼の名前は、幸也といった。でも本人がそう名乗っただけで、それが本名かどうかは実のところ分からない。
「仕事が終わったら、K駅のそばの公園に来て。6時半までは待つけど、それを過ぎたらあの写真を会社に送りつけるからね。 それが嫌なら、絶対来てよ」
歩道の上で、幸也は言った。
言い方は穏やかだったが、それは明らかな脅しだった。 裸の写真を職場にばら撒かれたら、僕は間違いなくクビになるんだから。


 駐輪場の奥には、広々とした芝生があった。 そこにいるのは、のんびり散歩をする人やサッカーボールを蹴って遊ぶ子供たちだった。
辺りには人がたくさんいたのに、僕はすぐに彼の姿を見つけた。 幸也は古くさいベンチに腰掛けて、ただ緩やかな風に吹かれていた。
「約束、ちゃんと守ってくれたんだね」
ベンチの前に立つと、彼の姿は僕の影に覆われた。
約束なんかした覚えはない。自分は君に脅されてここへ来たんだ。
そういう思いはあったけれど、もちろんそれは口にしなかった。
くっきり二重の目を見下ろして、静かに次の言葉を待つ。しかしそれは、僕がまったく想像していないものだった。
「じゃあ、行こうか。今度のホテルは格安だから、安心して」
無邪気な笑顔でそう言われると、掌の汗が急に乾いた。
こんな所へ呼び出して何を要求されるかと思っていたのに、はっきり言って拍子抜けだった。


 公園の裏のホテルはこじんまりしていた。 一見普通の2階建てアパートに見えたけれど、中はたしかにいかがわしいホテルだった。
「今日は暑かったね」
薄明かりの灯る部屋は、思ったよりも広かった。
幸也は丸いベッドにドカッと腰掛け、さっさと上着を脱いで床に投げ捨ててしまった。
その時僕は、反射的にそれを拾い上げた。すると彼は、その様子を見てクスクスと小声で笑った。
「このスーツ、高いんだね。アルマーニだから仕方がないか。ローンはあと2回残ってるんだろ?」
僕は完全に舐められていた。人をバカにしたその言い方と、歪んだ唇を見ればそのぐらいの事はすぐに分かる。
彼は本当に財布の中身をチェックしたようだった。カードを切った時の明細書は、たしかその中にあったはずだ。
「君はいったい僕をどうするつもりなんだ?」
冷静に言ったつもりなのに、僕の声は震えていた。昼間に感じた怒りが、その時また復活してしまったんだ。
「どうするも何も、やる事は1つしかないだろ?」
不意に腕を掴まれて、体がグラッと揺れ動いた。重い鞄が手を離れ、背中がベッドに叩きつけられる。
小ぶりな顔が目前に迫ったと思ったら、次の瞬間にはもう唇を塞がれていた。

 僕は無意識に目を閉じた。
ツンと尖った舌が口の中で暴れまわると、途端に気持ちがよくなって我を失いそうになる。
こんな事は間違っている。自分は今すぐ起き上がって、大人の対応をするべきだ。
頭の隅には、確かにそういう思いがあった。
なのに、心と体が連動しない。それどころか、体は心に逆行していた。
ネクタイを解かれて首筋が楽になり、ベルトを外されて一気にウエストが緩くなる。
まだキスを始めて間もないのに、僕はもう勃起していた。小さな手がパンツの中に入ってきた時、それは否応なく彼に知られてしまった。
5本の指は、あとちょっとというところでペニスの先には届かなかった。 それはズボンのジッパーが、まだしっかりと閉じられていたせいだ。
それを知った時、僕の右手はさっさとジッパーを下ろしてしまった。こうして僕は、欲望に流されたんだ。
「すぐに出すなよ。俺がいくまで、我慢して」
キスが終わると淋しくて、唇に残る彼の唾液を全部舐めた。

 「ん……あぁ!」
幸也の穴に呑み込まれた時、我慢できずに声を上げた。
昨夜と同じ快感が、熱い体を包み込む。
はっきり覚えていないけれど、昨夜も今と同じ状況だったのかもしれない。 声を押し殺す事ができないなら、カメラを向けられてもシャッターの音は聞こえないはずだから。
もしかして、今も淫らな姿を写真に撮られているんだろうか。ふとそう思った時、幸也が強く僕の手を引いた。
「俺をいかせないとあんたも出せないんだぞ。だから、がんばって」
指先に触れたのは、彼のペニスだった。それは熱くて硬くて、ほんの少しだけ湿っていた。
それから右手をフル活用して、彼をとことん愛撫した。
爪で節の部分をなぞったり、バイブレーターに負けないぐらいの振動を与えたり。 いつもマスターベーションで鍛えているから、そのぐらいの事は朝飯前だった。
僕も感じていたけれど、幸也も感じていた。2人の男の喘ぎ声が、重なるようにして何度も鼓膜を揺らす。
そのうち僕は、喉がカラカラに乾いてしまった。彼が腰を動かすたびに、気持ちがよくなって声を上げるからだ。
結果的には、幸也との約束は守れなかった。僕は彼よりも一瞬早くいってしまったんだ。
その時はまずいと思ったけれど、気持ちのいい方が先に立って途中からもうどうでもよくなった。
やがて指先がびっしょり濡れて、彼が射精をする気配を見せた。 吊り革を掴む手は案外あっさり乾いたのに、幸也のペニスは常に湿っていた。
「いく! いく!」
泣き出しそうなその声に、思わず胸がキュンとした。
ちょっと変かもしれないけれど、自分の指に反応する幸也がとてもかわいらしく思えたんだ。
そして僕は、彼の精液をたっぷり頬に浴びた。それは普段の僕なら、とても屈辱的な体験に思えただろう……


 頂点に達した快感が徐々に薄れていく時、心に大きな疑問が浮かんだ。
彼はいったいどういうつもりで僕に近付いたんだろう。
本人の申し出通り、昨夜のホテル代を引いた残りの金はちゃんと財布の中に入っていた。つまり彼の目的は、金ではない。
それが分かったからこそ、僕はいったいどんな要求をされるのかとドキドキしながら待ち合わせの場所へ向かったのだった。
ところが彼は、僕から何も奪おうとはしなかった。奪うどころか、昨夜と同じ快感を無償で与えてくれただけだった。