5.

 ビルの地下の小さなバーは、ジャズが流れる落ち着いた雰囲気の店だった。
僕と彼女がカウンター席に座ると、年老いたバーテンダーが早速オーダーを取りにくる。
先日酒で失敗したので、僕は薄めの水割りを頼む事にする。そして彼女は、いつものようにカシスソーダを注文した。
「今日はバーボンロックじゃないんですか?」
僕のそばで微笑むのは、専務のお嬢さんだった。
彼女は今、隣の課で働いている。短大を卒業してすぐの入社だから、社員の中では1番若い20歳という年齢だ。
長い黒髪は、いつでも甘いシャンプーの香りがする。
美人で、礼儀正しくて、おしとやかで……とにかく彼女は、僕にはもったいないような人だった。
「お疲れ様でした」
注文の品が運ばれてくると、僕たちはグラスを片手に乾杯した。
仕事の後の酒は、やっぱりおいしい。 本当なら浴びるほど飲みたい気分だったけれど、今夜は2杯でやめておこうと心に誓った。
「由利ちゃん、最近仕事はどう?」
「少しは慣れたけど、まだ失敗も多いです」
「そうか」
胸の谷間に目がいくと、当然のようにドキドキした。だからといって、どうなるわけでもないけれど……


 彼女と初めて話したのはエレベーターの中だった。そこで偶然2人きりになって、二言三言言葉を交わしたんだ。
でもそれは、ほんの挨拶程度に過ぎなかった。
「お疲れ様です」と言い合った後、「忙しそうだね」と僕が続け、「そうでもありませんよ」と彼女が返す。
それから短い沈黙があり、やがて静かにエレベーターのドアが開いた。
2人は同じフロアで降りて、彼女は右に、僕は左にと歩き始めた。 あのまま何事もなくオフィスへ戻っていたら、僕は今ここにはいない。
「折戸さん!」
背中でその声を聞いた時には、実際何事かと思った。
振り返ると、少し離れたところに彼女がいた。書類を胸に抱え、健康そうな笑顔を見せて、じっと僕を見つめていたんだ。
「よかったら、今度お食事に誘ってください」
それだけ言い残すと、彼女はこっちに背を向けて走り去った。
僕はその後呆然として、しばらくそこから動けなかった。


 彼女の胸から目を逸らし、薄い水割りを喉へ流し込む。するとほろ苦い味が口の中に広がり、耳の奥に山本の声がこだました。
「お前、必ず彼女をモノにしろ。専務の娘と結婚すれば、絶対に出世できるんだからな」
専務は社内人事に強い影響力を持っている。 娘を入社させる事も容易なら、娘婿にいいポストを与えるのも容易だろう。
同期入社の仲間内では、僕と山本はエリートとはいえない。他の連中を出し抜く気なら、確かにコネを使うのが1番の近道だ。
僕が専務の娘と結婚すれば、多分山本も引き上げてやれる。彼もそこまで計算して、僕の背中を押したに違いない。
でも人の心は、そう簡単ではない。
由利ちゃんはすごくいい子だ。だけど、結婚なんてとても考えられなかった。
彼女と僕とでは、何もかもが違いすぎるんだ。
僕は彼女を食事へ誘う前に、意を決してアルマーニのスーツを買った。由利ちゃんは常に高価なものを身に着けていたから、それに見合う洋服を調達したんだ。
それは痛い出費だったけれど、未来への投資と考えて無理矢理自分を納得させた。
だけど、とても窮屈なんだ。
高いスーツも、彼女との時間も、満員電車に乗っている時と変わらないほどに苦しいんだ。

 「電話が鳴ってるみたいですよ」
「え?」
彼女にそう言われて、胸ポケットの携帯電話が鳴っている事に初めて気付いた。
ひとまずすぐに立ち上がり、一旦店の外へ出る事にする。
バーに背を向けて重いドアを押すと、頬に少しひんやりとした空気を感じた。
静まり返ったその場所で、灰色の壁を見つめながら電話を繋ぐ。その時耳に飛び込んできたのは、幸也の掠れた声だった。
「折戸? 今うさぎの看板の下にいるんだけど、30分以内に来て」
彼はとても率直だった。余計な挨拶も何もなく、すぐに用件を話すんだから。
「約束を破ったら、どうなるか分かってるよね? じゃあ、待ってるから」
お決まりのセリフの後、電話は一方的に切られた。 着信記録を見てみたけれど、彼の番号は非通知のため確認できなかった。
最初の呼び出しがあった日から、今日でちょうど4日目になる。 あのまま終わるとは考えていなかったが、やっぱり電話はかかってきた。
うさぎの看板の下といえば、待ち合わせ場所として有名だった。彼のいる場所は、どうやら繁華街の東側のようだ。


 僕は急用ができた事を由利ちゃんに告げ、それからすぐにタクシーで彼の元へ向かった。
彼女の事は多少気がかりだったけれど、「1人で帰れる」という本人の言葉に甘えて家まで送る事はしなかった。
最初に呼び出された日は不安だらけだったのに、今夜の僕はほっとしていた。 幸也が電話をくれたおかげで、窮屈な時に終止符を打つ事ができたからだ。

 うさぎの看板の下は、平日の夜とは思えないほど賑わっていた。
午後10時を過ぎたというのに、制服姿の学生がたくさんいる。
ギターを片手に歌う人も、せっせとビラ配りをする人も、どう見ても10代の少年少女ばかりだった。
この付近には、安っぽい店が幾つも軒を連ねている。 たこ焼き屋とか、靴屋とか、雑貨屋とか、その業種はあまりにもバラバラだ。
とりあえずドラッグストアの前で立ち止まり、キョロキョロと辺りを見回して彼の姿を探した。
僕はできる事なら早くここを立ち去りたいと思っていた。24歳のサラリーマンは、ここでは明らかに浮いた存在だったからだ。
「折戸!」
だからこそ、彼が自分を見つけてくれてほっとした。後ろから肩を叩く手は、間違いなく幸也の手だった。
僕は肩に残る手の感触が消えないうちに振り返った。するとそこには彼がいて、その姿は少なからず僕を驚かせた。
「今日も時間通りに来てくれたんだね。あんたは本当にお利口さんだな」
そんなふうに挑発されても、今夜はまったく腹が立たなかった。
幸也は、ダボッとした学ランを着ていた。左の肩にはスポーツバッグを掛けていて、両手はズボンのポケットへ忍ばせている。
僕はこの時まで、彼が高校生だとは知らなかった。それどころか、幸也の事など何も分かっていなかったんだ。


 その後2人は、当たり前のようにホテルへ行った。
いかがわしいホテルというものは、どこも大体部屋の造りが一緒のようだ。 薄暗くて、ベッドがやけに大きくて、無駄に広いのがその特徴だ。
「腹減った。ピザ食いたいな」
幸也は相変わらずマイペースだった。テーブルの上にピザ屋のチラシを見つけて、それをしげしげと眺めている。
もしかすると、僕と宅配ピザは彼にとって同じようなものなのかもしれない。 どちらも電話1本で30分以内に届き、自分の好きなように食べられるわけだから。

 チラシを眺める彼を横目に、重い鞄をそっと下ろす。するとその時、幸也が突然近付いてきた。
至近距離で見つめられると、不覚にもドキドキしてしまう。
少し間を置いた後、細い両腕が首に絡み付いた。その時は、胸の高鳴りを覚られやしないかと思わずヒヤヒヤしてしまった。
軽く頬が触れ合った瞬間に、僕は自然と彼を抱き寄せていた。 何故そんな事をしたのかよく分からないけれど、ただ無意識に手が動いてしまったのだった。
「酒を飲んでたの?」
耳に息が吹きかかると、ペニスが徐々に硬くなっていくのを感じた。それはきっと、幸也も気付いていたはずだ。
「由利ちゃんと一緒に?」
その一言は、僕を動揺させるのに効果的だった。
幸也の事は何も知らないのに、僕はすべてを彼に握られている。もちろん彼女とのメールのやり取りも、全部含めてだ。

 「始めようぜ」
僕の手をすり抜けた途端に、彼はさっさとセックスの準備を始めた。
上着をテーブルの上に放り投げ、面倒くさそうにポロシャツを脱ぎ、乱れた髪も直さずにベルトに手を掛けようとする。
「あんたも脱げよ」
怪訝な顔でそう言われ、仕方なく僕も上着を脱ごうとした。
しかしその時、ある事に注目した。幸也が、いきなり携帯電話をベッドの上へ放り投げたんだ。
僕がそれを掴んでも、彼はまったく動じなかった。 それもそのはずだ。どこをどうやっても、携帯電話は何も反応を示さなかったんだから。
「勝手にボタン操作ができないようになってるから、あんたに写真は消せないよ。 あの写真はバックアップを取ってあるから、携帯を壊しても無駄だし」
幸也はこっちも見ずにそう言った。恐らく彼は、それを言うためにわざと餌を撒いたんだ。
でもその声は、心に響かずどこかへ消えていった。
僕は彼とは違う。人の携帯電話を、無断でどうこうしようとは思わない。
「そんなつもりはないよ。ただ、君の携帯の番号を知っておきたかったんだ。待ち合わせに遅れそうな時、連絡できないと困るから……」
どういうわけか、そう言った瞬間に部屋の空気が凍り付いた。
裸になった彼が、顔を上げてじっと僕を睨み付ける。幸也が本物の感情を露にしたのは、きっとこれが初めてだった。
「余計な事を考えるな。あんたは俺の言う通りにしてりゃいいんだよ!」
そこからは、この前と同じだった。
気が付くとベッドに叩き付けられていて、何も言えないようにさっさと口を塞がれる。 そして僕は、彼を欲して自らズボンを脱ぐのだった。

 4日ぶりのセックスは、今まで以上に気持ちがよかった。彼はすごく乱暴だったけれど、そういうのも嫌いじゃない。
ただ今夜の僕は、前より幾らか冷静だった。淫らな姿を晒しながらも、少しは考える余裕があったんだ。
幸也は自分を尊重される事に慣れていないのかもしれない。さっきは一瞬、そういうところが垣間見えた。
僕を睨み付ける時の、敵意のこもった視線が忘れられない。 ちょっと気を抜いた時なんかには、子供のような目をして笑う事もあるのに。
要するに僕が黙ってマットレスになっていれば、君はそれで満足なのか?
だったら何も心配はいらない。
君はただ、必要な時にいつでも僕を呼び出せばいい。すると僕は、例の脅しを言い訳にして、どんな時でも君に会いに来るだろう。
そうすれば、きっと2人は満たされる。僕は君と過ごすこの時間を、すでに愛し始めているんだから。