6.

 山本と一緒に昼飯を食べたのは、それから3日後の事だった。
僕たちが話すのは約1週間ぶりだった。彼はしばらく出張続きで、この日は久々の出社だったんだ。
この時は、会社の近くのそば屋を利用した。 山本がその店を気に入っていて、彼と2人の時は大体そこへ行くのだった。
「出張ばかりで忙しそうだな」
「雑用を押し付けられただけさ」
自動販売機で食券を買いながら、ため息混じりの会話を交わす。
オフィス街のそば屋は、正午を過ぎるといつも混雑していた。それでもなんとか空席を見つけて、まずは冷たい麦茶を口にする。
「冷えてておいしい。これがビールなら最高なんだけどな」
そんな声は、店内のざわめきにあっさりとかき消されてしまった。
テーブルを挟んで向かい側に座った山本は、何故か妙に難しい顔をしていた。 これからおいしいそばを食べるのに、眉を寄せているのはどうしてなんだろう。
「どうかしたのか?」
その理由を尋ねても、すぐには答えが返ってこなかった。
彼はしばらく腕組みをして、じっと何かを考えているようだった。考える時に腕組みをするのは、彼の昔からの癖なんだ。
「言いたい事があるなら言えよ」
それから麦茶をもう一口飲んで、何も考えずにそう言った。すると今度は、山本の方から質問を投げ掛けてきた。
「財布は戻ってきたんだな?」
テーブルの上の食券に目を向けると、彼の言いたい事がすぐに分かった。
食券を買う時、僕は当然のように財布の中から金を出した。 山本は大学の頃からの知り合いで、僕が長年使っている財布がどんな物かを知っていたはずだ。 そして彼は、それが盗まれた事も知っているのだった。
「お前、この前の女とまた会ったのか?」
「え?」
「酒に酔って寝た、行きずりの女だよ。その女、お前に財布を返しにきたんじゃないのか?」
「……」
「もしかして、そいつともう一度寝たのかよ?」
矢継ぎ早に質問されると、心に動揺が広がって何も言えなくなった。
でも僕には確かに説明責任があった。裸でホテルへ置き去りにされた夜、助けに来てくれたのは彼なんだから。

 何をどうやって話そうかと思った時、テーブルにざるそばが2つ運ばれてきた。
山本は無言で割り箸を掴み、ニコリともせずにそれを食べ始める。
「確かに女は財布を返しに来た。だけど、それだけだよ」
できれば嘘はつきたくなかった。でも僕は、そもそも最初から嘘をついていた。
1つ嘘をつくと、嫌でも嘘の上塗りをせざるを得なくなる。 それは本意ではなかったけれど、今更どうしようもないのも事実だった。
「俺に嘘をついても無駄だ。でもそんな事はどうでもいい。とにかく、その女にはもう二度と会うなよ」
山本は不機嫌そうな顔をしてそばを食べ続けていた。ワイシャツにそばつゆが跳ねても、ちっとも気にせずに。
「そんなにいい女なのか? 出世を棒に振ってもいいぐらいの、女神のような女なのか?」
「……」
「頼むから、もっと大人になれよ。由利にバレる前に、その女とは縁を切った方がいい」
彼の言う事は正しかった。幸也との事が彼女に知れたら、気まずくなるのは目に見えている。
でもその時は、山本が僕の目を見ない事に失望していた。
彼は恐らく、自分自身のために僕をいさめたんだ。僕と由利ちゃんの仲が壊れたら、彼の出世も遠のくわけだから。


 その後オフィスへ戻っても、全然仕事に身が入らなかった。 大事な書類に目を通しているのに、幸也の顔がチラついてちっとも集中する事ができない。
彼はいつも僕を見下すような態度を取るし、かわいげのない事ばかりを口にする。
それでも何故か、憎めなかった。
こんな時に思い出すのは、時折見せる少年らしい表情ばかりだ。
セックスの後にまどろんでいる時の彼。遠くを見つめて、何かを思う彼。
サラッとした髪とか、緩んだ口許とか、薄っすら感じるコロンの香り。そういうものを思い出すと、自然と胸が熱くなる。
幸也は、若くて綺麗で時々かわいい。
どんな経緯があったとしても、僕はそんな人とセックスをする機会に恵まれた。 それは興奮するほどラッキーで、絶対に手放したくない時間だった。

 仕事に追われる同僚を尻目に、僕は静かに席を立った。 とにかく今は、清潔なオフィスにいるのが苦しくてたまらなかったんだ。
股間の膨らみを覚られないように、そこは上着でそっと隠す。
廊下へ出て突き当りまで歩くと、右手の方にトイレがあった。
幸いそこには、人影が見当たらない。
とても不謹慎だけれど、僕はマスターベーションをするために個室へ入った。
ドキドキしながらズボンを下ろし、温かい便座に腰掛けて、硬いペニスをゴシゴシ擦る。
この時僕は、周りの静けさに強い違和感を覚えた。
ここでは声を出さずにいられるのに、幸也と2人の時はどうして我慢ができないんだろう……