7.

 幸也はその後もしょっちゅう僕を呼び出した。残業中だろうと、接待中だろうと、どんな時でもお構いなしに。
それでも僕は、その都度すぐに彼のところへ飛んで行った。残業中だろうと、接待中だろうと、どんな時でもだ。

 幸也との待ち合わせ場所は、常に一定ではなかった。 突然電話がかかってきて、「今自分がいるところへ来てくれ」と言われるのが大体いつものパターンだ。
そのおかげで、普段は行かないような場所へ何度も足を踏み入れた。 ゲームセンターとか、古着屋とか、聞いた事もないスーパーとか。
でも僕は、しだいにそれを楽しめるようになっていった。彼の立ち寄る場所を知るたびに、幸也の趣向が少しずつ分かってきたからだ。
要するに僕は、彼の事をもっとよく知りたかったんだ。

 今日はわりと早い時間に本屋へ呼び出された。照明が眩しすぎるほど明るくて、かなり広々とした本屋だ。
僕はそこへ入ると、本棚の間を練り歩いて彼の姿を探す事にした。
本屋で気軽に立ち読みするとしたら、恐らく雑誌だろう。僕はそう思って、まずは奥の雑誌のコーナーへ向かおうとした。 ところがその途中で、あっさり幸也を見つけてしまった。彼は小説の並ぶ本棚の前で、分厚い本に目を通していたんだ。
そのタイトルを確認した時、僕はちょっと意外な気がした。
それはかなり有名な小説だったけれど、全般的に難解で、あまりおもしろい内容のものではなかったからだ。
「難しい本を読んでるね」
そんなふうに声をかけると、幸也は顔を上げてハッとしたような表情を見せた。 それから慌てて本を閉じて、それを素早く手放したのだった。
その時僕は、彼の髪が少し短くなっている事に気付いた。以前は毛先が学ランの襟にかかっていたのに、今はまったくそれがない。
「髪を切ったんだね」
僕がそう言った時、彼はちょっと嬉しそうに笑った。でもそれはほんの一瞬だけで、すぐに真顔に戻ってしまった。


 今日は給料日だったから、少し奮発して眺めのいい部屋を取った。
広めのバルコニーへ出ると、手前の方にバスタブがあった。そしてその向こうには、都会の煌びやかな夜景が見えた。
「綺麗じゃん」
幸也はコンクリートの柵から身を乗り出して、遠くの光を見つめていた。その時僕は、隣でそっと彼の様子を伺っていた。
まつ毛が長くて、鼻は高い。学ランの着こなしはだらしない印象だけれど、きっと今はそういうのが流行りなんだろう。
こうして見ると、幸也はごく普通の高校生だ。人並みに勉強もするだろうし、友達と遊ぶ機会も多いと思う。
でも彼は、その隙間に僕との時間を取り入れた。それはただ単に、性欲を処理するためなんだろうか。
何にせよ、2人の関係はまともではない。これをずっと続ければ、面倒に巻き込まれる可能性がないとは言えない。 だったら何とかして、早めに幸也との関係にピリオドを打つべきだ。
恐らくそれが大人の冷静な判断というものだろう。でも僕は、まだ大人になりきってはいないようだった。
この先どうなるかは分からないが、今はまだ彼との関係を大事にしたいという思いが強かった。
仮に僕が背いても、幸也は例の写真をばら撒いたりはしない。 それは確信していたけれど、ずっと知らないフリをしてきたのはそのせいだ。
彼には常に脅されているから、何があっても呼び出されれば会いに行く。 僕はそうやって、ずっと自分の行いを正当化してきたのだった。
「もっと安い部屋でよかったのに」
幸也は僕を見ようともしない。ただ遠くの光に見入っているだけだ。
「給料日だから、たまにはこんなのもいいだろう?」
「安月給のくせに、無理しちゃって」
そう言われて、初めて気付いた。一旦盗まれた財布の中には、給与明細も入っていたはずだ。
「せっかくだから、ここでやる?」
一応同意を求められはするが、はなから僕に拒否権はない。
夜空を見上げると、無数の星が目に映った。これから2人は、星に見守られながら愛し合う。
今分かっているのは、ただそれだけだった。

 彼は蛇口をひねってバスタブにお湯を注ぎ、それからすぐに裸になった。
ゆっくりスーツを脱ぎながら、チラチラとその裸体に目をやるのが僕の癖だ。
へこんだ腹やヘアーを見ると、パンツが内側から押される。
バスタブに薄っすらお湯が溜まると、蛇口はあっという間に閉じられた。その頃には僕も、すっかり裸になっていた。
「ここへ入って」
幸也は僕にバスタブへ入れと言った。その指示は絶対だから、黙ってそれに従うしかない。
その時僕は、彼の小さな優しさに触れた。
バスタブの中へ腰を下ろすと、ほんの少しのお湯が尻を温めてくれた。 僕の肌が直接冷たい物に触れないように、幸也は気を遣ってくれたんだ。
それはきっと、無意識にやった事だった。幸也は心の内側に、本人も気付かない優しさを隠し持っていた。

 ベッドがバスタブに変わっても、やる事は何も変わらなかった。
彼は僕の上にまたがり、円を描くようにゆっくりと腰を回した。
最近残暑が影を潜め、夜の風は秋色に変化しつつある。両手で彼を抱き寄せると、その肌の冷たさにちょっと驚いた。
優しさのお返しというわけではないけれど、僕は少ないお湯をすくい上げて背中にそれをかけてやった。
「あ、あぁ……」
我慢しようと思っても、自然に声が出てしまう。幸也はとても締りがよくて、ペニスに強い刺激が走る。
自分の手で擦る時よりも、何倍も何倍も気持ちがいい。
この感覚を知ってしまった以上、幸也との関係を断ち切るのは不可能だ。 彼は写真で僕を脅しているのではない。若く美しい体で僕を縛り付けていたんだ。
こうして触れ合っていると、退屈な日常が夜空の彼方へ消えていく。
だんだん意識が朦朧としていく中、僕は全身で彼を受け止めていた。
体の線が細すぎて、強く抱き締めると折れてしまいそうな気がした。 ピチャピチャと少ないお湯が跳ねるたびに、幸也の激しさを感じて興奮が高まっていく。
僕は射精を遅らせるのに必死だった。なのに秋色の風も、冷たい肌も、その努力をなかったものにしようとする。
「まだ出すなよ」
そう言われても、どうしようもない。
先に幸也をいかせたくて、掌でそのペニスを包み込んだ。途端に彼が声を上げると、もっと興奮してどんどん射精の時が近付いてくる。
考えてみると、僕が彼に背くのはセックスの時だけだった。それが自分の意思ではないにしても、体が言う事を聞かないんだ。
「あーっ!」
せめて静かにいきたいのに、それすら無理だった。
風船のように膨らんだペニスが、パンと弾けてしぼんでいく。幸也はそれを、体の内側でしっかりと感じ取っていただろう。
僕が果ててしまうと、図ったように彼もいく。幸也の白い精液は、腹や太ももをほんのりと温めてくれる。
こうして僕は、体の外側で幸也の頂点を感じ取るのだった。

 彼は僕の胸に身を預けて、しばらくセックスの余韻に浸っていた。
その最中はそう思わないのに、脱力した少年の体はやけに重い。
「折戸は相変わらず早いな」
呆れたようなその声が、2人きりの夜空の下に響き渡る。
幸也は右腕を思い切り伸ばして、僕の頭の後ろにある蛇口を力一杯ひねった。
さっきよりも風が冷たくなってきたから、ここでたっぷりお湯に浸かるのもいいだろう。
「あんたは、女とやる時もこうなのか? あまり早いと、女は満足しないだろ?」
一瞬、幸也の唇が耳たぶに触れた。僕が少し笑ったのは、別にくすぐったかったからではない。
「最後に女を抱いたのは大学4年の時だ。もうずっと前の事だから、女が満足したかどうか覚えてないよ」
それは紛れもない事実だった。
遠い記憶に思いを馳せても、その時の相手の名前すらすぐには浮かんでこない。
気が付くと、すでに腰のあたりまでお湯が満ちていた。幸也の背中はまだ冷たかったから、もう一度そこへお湯をかけてやった。
「幸也、今度の土曜日、一緒に遊びに行かないか?」
「……何言ってるの?」
そう聞かれても、自分が何故そんな事を言ったのか分からなかった。
ただ、いつもこんなふうなのは嫌だったんだ。セックスをするだけの関係というのが、どうしても意にそぐわなかったんだ。
「最初に待ち合わせした公園で、2時に待ってるよ。学校は午前中で終わるだろう?」
「行くかどうか分からないよ」
「いいよ。僕が勝手に待ってるんだから」
いつの間にか、肩までお湯に浸かっていた。
彼はずっと伏し目がちで、まったく顔を上げようとはしなかった。

 きっともうすぐ、お湯が溢れ出す。
僕は満たされたバスタブの中で、彼に溺れてしまいたかった。