11.

 とても気まずかった。互いに沈黙したままのドライブは20〜30分も続いただろうか。
その間俺は彼にそっぽ向いて外の色鮮やかな景色をじっと眺めていた。 色濃く目に映るすべての物が、自分のマサトに対する気持ちを改めて自覚させていた。
俺は自分の意思で彼の車に乗った。でも、彼にどうやって接したらいいのか分からなかった。 だって、俺は2週間もの間ずっと彼の電話を無視し続けた。 その事についてはどんな言い訳も通用しないと分かっていた。
外の景色はごく普通の街並みでしかなかった。そしてその景色が劇的に変化する事はなかった。 マサトはどこかへ行くという様子も見せず、ただ道なりに車を走らせていたんだ。
秋の空は気まぐれで、さっきまで真っ青だったのにあっという間に灰色に変わっていった。 もうすぐ涙雨が降り出すかもしれない。俺の変わりに……空が泣いてくれるのかもしれない。
俺がそっぽ向いているその間、運転席のマサトはいったい何を思っていたんだろう。

 30分ほど当てのないドライブを続けた後、マサトは突然車を止めた。
車の多い幹線道路の左端。窓の外には白いガードレールがあった。 そしてその向こうには大きなレンタルビデオ屋の看板と、電気屋の看板が見えた。
「優クン、まだ怒ってる?」
突然緊張した声でマサトにそう言われ、俺は反射的に彼の方へ顔を向けた。 俺がその日彼の顔をちゃんと見たのはそれが初めてだった。
「やっとこっち見てくれたね」
そう言う彼の顔を見た時、俺はこの2週間余りの事を全部後悔した。
俺はなんの説明もせずいきなり彼に背を向けて走り去った。 そして何度も電話をくれた彼とちゃんと向き合おうともしなかった。
マサトはとても神妙な顔つきをしていた。 いつも優しかった彼の目には不安の色が見え、唇はきつく噛み締められていた。
マサトと知り合ってまだ間もないけど、彼がこんな顔をするのを初めて見た。 きっと彼にこんな顔をさせたのは……この俺なんだ。

 「俺、怒ってなんかいないよ」
「……本当に?」
「だって、マサトは俺を怒らせるような事なんか何もしてないよ」
そうだ。マサトは何も悪い事なんかしていない。ただいつも優しくしてくれただけ。ただそれだけだ。
俺たちが乗る車の横を大型トラックが走り去り、一瞬車がブルッと震えた。 マサトはまだ不安そうな目をして俺を見つめていた。
俺は彼を傷つけた自分に腹が立ち、不安そうな彼の目を見て罪悪感を覚え、膝の上で右の拳をぎゅっと握り締めた。
マサトは一瞬俯き、それからフロントガラスの向こうに見える灰色の空を見つめた。 そして気を取り直したようにこう言って……それからはもういつもの彼に戻ってくれた。
「雨が降りそうだけど、ドライブしようか」
俺たちは灰色の空の下でお互いの目を見つめあった。 俺が笑うと、マサトもにっこり微笑んだ。
拳をほどいた右手の人差し指で彼のエクボを突っつくと、彼は大きな手で俺の頭をなでてくれた。
俺は何も聞かずに優しくしてくれる彼をますます好きになっていった。

 秋の空は本当に気まぐれだ。雨雲はあっという間にどこかへ消え去り、また空は真っ青な色に変わった。
俺たちはしばらく当てのないドライブを続け、たわいのない会話を交わした。
マサトは自分の事をいっぱい話してくれた。
大学の英文科へ通っているのにあまり英語が話せない事や、高校までサッカーに明け暮れていた事。 週に2回家庭教師のバイトをしている事や、車のローンに追われていつも貧乏な事。
マサトと俺には共通点なんか何一つなかった。
でも、最初に会った日の記憶が俺の宝物だった。彼と大事な秘密を共有している事が、ものすごく嬉しかった。

 彼はどこへ行くのか俺には告げず、ひたすら郊外の方へ向かって車を走らせた。
俺はどこへ行くの? と彼に尋ねる事はしなかった。彼と2人でいられるなら、どこへ行こうと構わなかったからだ。
やがて車はくねくねと山道を上って行き、草が覆い茂る山頂へ着いた時、彼は街を一望できる場所に車を止めてエンジンを切った。
その辺りには先客の車が何台かいた。 午後6:00を過ぎてから空は紺色になり、目の前には障害物が何もなく、そこから見下ろす街並みは様々な光が煌いてとても綺麗だった。
「もう少し暗くなったら夜景がもっと綺麗になるよ」
マサトはそう言って運転席のシートを少しだけ倒した。 俺も彼の真似をして、やはりシートを倒してみた。

 俺もマサトもしばらく黙って夜景を見つめていた。 あまりにも長く沈黙が続くので、俺はそのうち何か言わなくちゃと考え、悪い頭で思い付いたつまらない言葉をとにかく口にした。
「街の明かりがすごく綺麗だね」
「優クンを一度ここへ連れて来てあげたいと思ってたんだ」
「本当?」
「うん」
彼は、たまには俺の事を考えてくれていたんだ。その事が分かってすごく嬉しかった。
辺りは1秒過ぎ行くごとに暗くなっていった。
俺はただマサトといられる事が嬉しくて、シートに寄り掛かったままそっと彼の顔を見つめた。 暗くてその顔はよく見えなかったけど、マサトはまだフロンドガラスの向こうを真っ直ぐに見つめていた。
「今日、優クンに会えて本当によかった」
俺の視線を感じ取ったのか、彼は身動きもせず独り言のようにハスキーな声でそうつぶやいた。
「僕、来週イギリスへ行くんだ。半年間留学するんだよ」
彼の放った言葉の矢は深く胸に突き刺さり、俺は内臓をグリグリとえぐられる感覚を覚えた。
もうすぐ彼に会えなくなる。
その事を知った途端 つまらない意地を張って彼を忘れようなどと出来もしない事を考え、2週間も彼を無視してきた自分を本当に……死ぬほど悔やんだ。

 彼は多分その後も何か話してくれたと思うけど、俺はひどくショックを受けていて、それから後の事はほとんど覚えていない。
ただ空が真っ黒になった頃、気が付くと俺たちの乗る車は俺の家のすぐ近くまで来ていた。
多分彼は家まで送るよと俺に言い、俺は自分の家がどこなのかちゃんと彼に伝えたのだろう。 でも、頭が真っ白でその辺りの事も全然覚えていない。
だけどフロントガラスの向こうに見えるのは間違いなく俺の家を囲むブロック塀であり、その向こうに見える光は家のキッチンの明かりだった。
きっと母さんは今頃明るい光の下で漬物を漬けているだろう。 弟はマンガの本を読み、父さんは床に寝そべっているだろう。
「優クン、今日はありがとう。元気でね」
電信柱の横に車を止めてマサトがそう言った。 いつものように優しい目をして。俺の顔を真っ直ぐに見つめて。
まだ痛みが癒えないうちに、また胸に新たな矢が突き刺さった。
これでサヨナラするかのような彼の言葉の矢は……俺の胸の傷を更に拡大させた。
嫌だ。もう会えないなんて絶対に嫌だ。まだいっぱい話したい事があるのに。本当はずっと一緒にいたいのに。
「あぁ……また雲が出てきたね。星が見えなくなっちゃったな」
俺はずっとマサトを見つめているのに、彼の目は星の見えない空を見上げていた。 気まぐれな空が俺の気持ちを代弁してくれている事になんか気付きもせずに……
悔しかった。彼の目をもう一度俺に向けてほしかった。
マサト、こっち向いて。俺の事だけ見ていて。
「ねぇ……明日も会える?」
涙声にならないように必死で搾り出した俺の言葉。 彼はその言葉を受け入れようとはせず、俺の顔も見ずにゆっくりと2度かぶりを振った。
「金曜日までにレポートを提出しなくちゃならないんだ。 でもまだ半分ぐらいしか出来上がってない。だから、それをやらなくちゃ」
「いつ行くの?」
「来週の月曜日」
「じゃあ……じゃあ、土曜日なら会えるよね?」
「……」
「お願い。もうわがまま言わないから、なんでも言う事聞くから、行く前にもう一度だけ会って」
俺は必死で彼にすがり付いた。それでも彼はなかなかうん、と言ってくれなかった。

 その時、決して振り向かない俺を何度も映画に誘った綾子の気持ちが初めて分かった。
胸が痛くて、苦しくて、息が止まりそうだった。
片想いがこれほどつらいものだなんて……今まで知らなかった。