12.

 マサトとは、土曜日の夕方に会う事ができた。 その日 彼のレポート提出が遅れていたら会えない事になっていたけど、俺たちはちゃんと無事に会う事ができた。
彼は家の近くまで車で迎えに来てくれた。
この前別れたのと同じ場所。約束の時間になった時、電信柱の横に彼の車を見つけた時はすごくほっとした。
その日の彼は、最初に会った時と同じで……すごく穏やかだった。
俺を見つめる茶色の目。柔らかそうな黒い髪。白い肌。針で刺したようなエクボ。
それを失う事は……すべてを失う事だという気がしていた。

 「今日は無理言ってごめんね」
俺は彼の車に乗るとまずそう言って謝罪した。
彼は大事なレポートを書き上げた後で疲れていたと思うし、イギリスへ行くための準備だっていろいろあるはずなのに、俺のわがままを聞いてくれた。その事はすごく嬉しくもあり、申し訳なくもあった。
でもマサトはそんな事で怒ったりするような人ではなかった。彼は何も言わずに黙って微笑み、すぐに車を発進させた。
その日の空は朝からずっと灰色で、今日こそは本当に泣き出してしまいそうな……そんな空だった。
マサトは大学の友達の事を話しながら、その日ははっきりした目的を持って車を走らせていた。
外の景色は相変わらず色鮮やかだった。 秋の花も、街路樹の葉も、すれ違う車の色も、すべてが光り輝いていた。
でも気を抜くとすぐにその景色が涙で滲んだ。俺は泣き出しそうになるのを我慢するのに必死で、彼の世間話に頷くだけで精一杯だった。

 その日彼は湖へ向かって車を走らせていた。
夕暮れ時。夕日色の湖面が波打ってオレンジ色と青い色の縞模様が水の上に作られ、俺はそれを見た時外に緩やかな風が吹いている事を知った。
マサトは石がゴロゴロした湖の畔に車を止め、外へ出ようと俺を誘った。
外の空気は湿っていた。
真ん丸な湖はとても美しく、デートに来ているカップルがそこいら中にいた。 手をつないで歩く男女の姿を見ると、羨ましくもあり、悲しくもあった。
「向こうまで歩いてみようよ」
マサトはかなり遠い所にある青い屋根の建物を指さして俺にそう言った。 そこは休憩所になっていて、湖の畔をずっと歩いて行くと30分ぐらいで着くと彼が教えてくれた。
丸くなった石の上を歩くのは、すんなりとはいかなかった。 多分マサトはもっと早く歩けたと思うけど、俺のペースに合わせてゆっくりと歩いてくれた。 2つの長い影はたくさんの人に追い抜かれても尚ゆっくりと前へ進んだ。
マサトはわざと濡れた石の上を選んで歩いていた。湖が波打った時に濡れた石の上だ。 彼は白いスニーカーで、時々滑る石の上を器用に歩いていた。
俺たちは500〜600メートルぐらいそうして歩いただろうか。それでも、青い屋根はまだまだ遠くに見えた。
彼の着ている白いトレーナーと色褪せたジーンズは夕日の色に染まっていた。夕日の色があまりにも悲しくて、俺は途中で立ち止まった。靴底が薄いスニーカーを履いているから、もう足の裏が痛かった。
マサトは俺が立ち止まった事に気付かず、まだしばらく前を歩き続けていた。
あの日と同じだ。グラウンドの脇を、長い影を伴って彼と一緒に歩いたあの日。俺は、そこからもう一度やり直したい。
しばらくすると、彼と彼の長い影が後ろを振り返った。
あの日と違うのは……彼がすぐに走って俺の所へ戻って来てくれた事だ。
「どうしたの? 疲れた?」
夕日を浴びながら、心配そうな目をして彼がそう言う。俺は何も答えられず、ただ黙って彼の顔を見上げていた。

 石の上に立って見つめ合う俺たちの横を、何人もの人たちが通り過ぎて行った。 俺たちはその時、他人の目からいったいどんなふうに映っていたんだろう。
マサトは突然しゃがみ込み、小さめの石を目で探して拾い上げ、助走をつけながらそれをアンダースローで湖に投げ入れた。 すると彼の投げた石ころは水の上を3回跳ねて湖の底へ沈んでいった。
「優クンもやってみたら?」
彼が夕日を背にして振り返った。俺はめぼしい石を見つけ出し、それを思い切り湖に投げ入れた。 俺の投げた石ころは水の上を5回跳ねた。
「あっ、すごい!」
マサトはそう叫んだ後、また次の石を拾って湖に投げ入れた。彼は幾度かそれを繰り返した。でも何回やっても俺の記録には勝てず、5〜6個石を投げた後とうとう諦めた。
「優クンには勝てないなぁ」
最後の石が2回跳ねて湖の中へ消えるのを見届けた後、彼は後ろに立っている俺を振り返ろうとした。
その時俺は彼の後ろの長い影を踏んでいた。少しでも彼と触れ合っていたかったからだ。
「マサト、振り向かないで!」
俺は、振り向こうとして少し動いた影にそう叫んだ。
もうどうしても気持ちを抑え切れなくて……何も伝えないまま彼を行かせる事がたまらなく切なくて……ちゃんと自分の言葉でこの思いを伝えたいと思ったんだ。でも面と向かって話す勇気はなかったから、振り向かないでと彼に向かって叫んだんだ。

 その時、近くに人影はなかった。 車を止めてある辺りと青い屋根が見える辺りには人がいっぱいいたけど、俺たちの側には誰もいなかった。
俺は必死で彼の背中に語りかけた。とてもたくましい彼の背中に。
「マサト……俺がこれから話す事を聞いても、俺の事嫌いにならないって約束して」
湿気を含んだ緩やかな風が俺の髪と彼の髪を揺らしていた。
湖の波の音が静かに響いていた。そして……夕日は沈みかけていた。
「ねぇ、約束して」
「うん。約束する」
大好きな彼のハスキーな声と静かな波の音が重なった。
俺は湿った空気を大きく吸って、勇気を振り絞って、彼の背中に向かって、生まれて初めての告白をした。
「俺、マサトの事が好きなんだ」
また湿った風が俺たちの髪を揺らした。今度は少し強い風で、湖面の水も大きく波打った。
「初めて会った時から好きだったんだ」
マサトは何も答えなかった。でも俺は最初から何も期待していなかった。
彼が俺の気持ちを受け入れてくれるとは思えなかったし、この告白を喜んでくれるとも思えなかった。
「……気持ち悪い?」
「……」
「男にこんな事言われて、気持ち悪い?」
「……」
「俺が今言った事はもう忘れて。俺はただ、マサトとこれからも友達でいたいんだ。俺は何も望んだりしないから……だから、安心して」
告白を終えた時、夕日が沈んで辺りは薄暗くなった。
俺はその時、夕日が沈んでくれた事に感謝していた。 これから家へ帰るまで気まずいドライブになったとしても、日が暮れてしまえばお互いの顔がはっきり見えなくて済むからだ。

 その時、休憩所の方から2人の男女が歩いて来て、女の笑い声が微かに俺の耳に届いた。
マサトは最後まで振り向かなかった。
彼はただ俺たちへ近づいてくる2つの影をそっと見つめていた。
「キスしたいけど……ここではちょっと無理かな……」
次の瞬間湿った風に乗って俺の耳に届いたのは、もう聞き慣れた彼のハスキーな声だった。