2.

 電車の中はしばらくザワついていた。
「びっくりした」とか「何今の?」とか、口々に誰かと会話を交わす声が車両の中に響いた。
でもその時、俺はただ1人でパニくっていた。
どうしよう……
漏らした瞬間は生温かいと感じた股間が、今はもう冷たくなりつつある。
急いで周りの人たちを観察したけど、俺が漏らした事に気付いている人はまだいない。
俺はスポーツバッグの下へ手を伸ばし、そっと冷たい股間に指を当ててみた。 制服のズボンは明らかに濡れていた。
ほんのちょっと漏らしただけだと思っていたのに……きっとズボンにはシミがついている。
頭に整髪料を塗りたくった隣のオヤジがクンクンと鼻を鳴らして何かの匂いを探している。 狭い車両の中は密室で、外の空気が入ってくる事はない。匂いは全部こもってしまう。
やばい……
俺は汗ばんだ右手で携帯を握り締め、左手は濡れた股間を隠すためのスポーツバッグをしっかりと押さえていた。
本当は眠る余裕なんかないけど、下を向いて眠っているフリをする。 俯いてきつく目を閉じると、恥ずかしくて情けなくて涙が零れ落ちそうになった。
17歳にもなってお漏らしするなんて……しかもこんなに人がいっぱいの電車の中で。
誰かに気付かれたらどうしよう……
俺の頭の中は真っ白で、心臓はバクバクいっていた。 今の俺には零れ落ちそうになる涙を止める事だけで精一杯。
一度緩んだ蛇口は締りが悪く、止めようとしてもチョロチョロと生温かい物が漏れてしまう。
もう今はお尻のあたりまで冷たい。お尻の下のビロードの布が張ってある椅子はきっともう濡れている。

 俺が降りるはずの N 駅に着いた時、電車のドアから大勢の乗客がホームへ吐き出されて行った。
電車に残って座っている人はまばらになり、つり革につかまって立っていた人たちも皆それぞれ空いている席を見つけて腰掛けた。
立っている人の影が視界から消え、電車の窓から外の景色が見える。
6時を過ぎてもまだ外は明るかった。 駅前のスーパーの前でたむろしているのは、俺が卒業した中学校の制服を着ている男子生徒たち。 その側で立ち話をしているのは、顔見知りかもしれないおばさんたち。
俺の隣は3人分座れるスペースが空いていた。向かい側には紺色のスーツを着た若い女の人が座っているけど、彼女は手にした文庫本に夢中になっている。
俺はとうとうその駅では降りられなかった。 地元の駅で降りてしまったら、知っている人に会うかもしれない。 同じ中学だった友達とか、近所のおばさんとか……
まだ外は明るい。濡れたズボンは隠し切れない。 もしも知り合いに会って濡れたズボンを見られてしまったら、俺はもう生きていけない。
ズボンもお尻も冷たくて、すごく気持ちが悪い。本当は早く帰って着替えたい。
でも、俺は俯いて3つ先の終点駅までそのままでいる覚悟をした。

 終点駅に着くと、当たり前だけど電車に乗っていた人が全員降りた。
終点駅の付近はひどくさびれた町で、あまりここまで乗ってくるような人はいない。
俺は皆が電車を降りて周りに人がいなくなったのを確認し、ドキドキしながらやっと立ち上がった。 そして白い電車の床の上をとにかく急いで歩く。
濡れたパンツがお尻に貼り付いて気持ち悪い。 ズボンの前のシミはスポーツバッグで隠して歩いた。 幸い後ろから人は来ていないから、お尻が濡れていても今のところ隠す必要はない。
駅前からタクシーに乗って家に帰ろう。俺はそう思い、人気のない灰色のホームの床を急いで歩いた。