3.

 その人がどこからやって来たのかは全然分からなかった。
駅の改札へ出る階段を下りようとしたちょうどその時、俺は突然背中から誰かに黒いコートを掛けられた。 そのコートは長くて、俺の膝下15センチぐらいまであった。
さびれた駅のホームには俺とコートの主以外に誰もいない。 階段にもベンチにも喫煙所にも誰もいない。
「早く袖を通して」
その人が俺の耳元で小さくそう囁いた。
背が高くて色白でブルージーンズを履いている彼。 彼は素早く俺の目の前に立ち、ズボンのシミを隠していた紺色のスポーツバッグを奪った。
股間のあたりだけ色が変わったグレーのズボンが露になる。
彼は常にキョロキョロして人が来ないかどうかを見張っていてくれた。 俺の背後に人はいない。もしその時誰かが階段を上って来たとしても、背の高い彼が俺の前に立ちはだかっていたから濡れたズボンを見られるような事は決してなかったと思う。
「早くコートを着て」
彼の茶色っぽい大きな目が優しく俺を見下ろしている。
その時俺はやっと気付いたんだ。 長いコートを着れば濡れたズボンを隠せる。 彼は何もかも分かっていて俺を助けようとしてくれていたんだ。
俺は彼の言う通り黒いコートに両腕を通した。 これで人に見られてもズボンが濡れている事はばれない。
「ほら、早く行こう」
彼が紺色のスポーツバッグを肩に掛け、そう言って俺を促した。

 俺が大失態を演じたのは、彼が俺に背を向けて2〜3段ぐらい階段を下りた時の事だった。
安心したのか気が緩んだのか、前ぶれもなく俺の股間から生温かい物が溢れ出したんだ。
なんとか止めようとして股間を右手で押さえても指の隙間を滝のようにおしっこが流れ落ちていく。 シャーッと音をたて、太ももを伝って……次々と流れ落ちていく。
グレーのズボンは股間から太ももにかけてびっしょり濡れ、色が黒く変わってしまい、足元には水たまりを作ってしまった。灰色のホームの床までもが黒く染まった。
階段を下りかけていた彼が振り向く。柔らかそうな黒い髪と茶色の目が俺に向けられる。
俺はその瞬間とうとう我慢できずに泣き出してしまった。
恥ずかしくて死んでしまいたかった。もう大人なのに、人前でお漏らしするなんて……

 彼が灰色の階段を駆け上がって戻ってきた。 そして俺の一つ下の段に立ち、俯いて泣いている俺の頭を優しくなでてくれた。
俺の作った水たまりがどんどん広がり、彼の靴の先にまで滴り落ちていくのが見えた。
「泣かないで。早く行こう」
彼は俺の濡れた右手をしっかりと握り、その手を引いて階段を駆け下りた。 俺は左手でコートの前を合わせ、色の変わったズボンを必死に隠そうとしていた。
彼が急いでくれたおかげで、俺たちは誰にも会わずに階段のすぐ下にあるトイレへ辿り着く事ができた。
彼は縦に5つぐらい並んでいる個室の一番奥へ俺を連れて行き、中からドアに鍵をかけた。 個室のベージュの壁には卑猥な落書きが所狭しと描かれていた。 俺はとにかく恥ずかしくて、ただしゃくり上げて泣く事以外に何もできない状態だった。
「泣いちゃだめだよ。男の子だろ?」
彼は笑顔で俺を励ましながら羽織っていたコートを脱がせ、それを俺のスポーツバッグと一緒にドアの上の方に付いているフックに掛けた。
そしてその後すぐに俺のズボンのベルトを外し、びしょ濡れのズボンとパンツを下ろしてくれた。 その時紺色のブレザーの下に着ている白いワイシャツの裾まで濡れてしまっている事が初めて分かった。
「全部出した方がいいよ」
彼が便器の白いフタを上げて俺にそう言う。
俺はシャーッと音をたて、やっと便器の中へ放尿した。 いっぱい漏らしたのに、まだ膀胱の中には大量のおしっこが残っていた。
彼は背負っていた黒いリュックの中から白いタオルを取り出し、俺の股間や太ももを拭いてくれた。俺はその間もただ泣きじゃくっていた。
お漏らしして下半身は丸出しで、足にしたたるおしっこを拭いてもらうなんて……幼稚園の時以来記憶がない。
「泣かなくていいんだよ」
彼はそう言いながらしゃがんで俺のズボンとパンツに染みこんだおしっこもタオルで拭いてくれた。 見ず知らずの少年のお漏らしの処理をしてくれるなんて、彼はきっとすごく優しい人なんだと思った。
一通り処理が終わると、彼は濡れたズボンとパンツを上げて俺に履かせてくれた。 足もお尻も冷たくて、一瞬ブルッと寒気がした。濡れたズボンを身に着けるのはすごく気持ちが悪かった。
それでもベルトをしてもらってコートを着せてもらってダブルのコートのボタンをはめるとちょっとだけ落ち着いた。 でも恥ずかしさとショックは消えず、しゃくり上げて泣くのはやめられなかった。
「泣かないで」
俺が泣き止んだのは彼がそう言いながら遠慮がちに抱きしめてくれた時だった。 彼は身長175センチの俺よりまだ背が高く、彼に抱きしめられると俺の顔は彼の胸あたりにあった。 濡れたズボンは冷たかったけど彼の胸は温かくて、すごくほっとした。
「もう泣いちゃだめだよ」
彼のハスキーな声が俺の耳元でそう囁く。
「この事……誰にも言わないで」
俺が彼の前で初めてまともな声を発したのは、自分の保身のためのそんな言葉だった。
それでも彼はちょっと微笑んだ様子でこんなふうに言ってくれた。
「君に恥をかかせるような真似は絶対にしないよ」

 俺が彼の胸を離れると、彼は大きな手で頭をなでてくれた。
俺はその時初めてまともに彼の顔を見た。 白い肌がとても綺麗で、茶色の目は終始優しかった。 短く刈り上げた黒い髪はとても男らしくて、ひ弱な俺とは全然違ってた。
卑猥な落書きがいっぱいのトイレなんかじゃなくて、もっと別な場所で別な出会い方をしたかった。 俺はその時、そんなふうに思っていた。
「さぁ、行こう」
彼はそれから俺を促して個室を出た。俺もすぐに彼の後に続いた。 でもさっきみたいに手をつないでくれるような事はなくて、ちょっと淋しかった。