5.
冷え切った体を洗って熱いシャワーを浴び、温めのお湯を張ったバスタブに浸かるとやっと落ち着いた。
ラブホテルの風呂はとても広くて、丸い形をしたバスタブはジャグジー付きだった。
とてもゆったりしていて気持ちが良かった。
俺はバスタブの中で考えた。
彼にお礼を言わなくちゃ。
彼がいなかったら今頃俺はどうなっていたか分からない。
あのまま帰ったらもうとっくに帰宅しているであろう生意気な弟に濡れたズボンを見られてしまったかもしれないし、明日も学校へ履いていかなくちゃならないズボンを惨めな思いで洗うハメになっていたかもしれない。
彼はすごく優しかった。
決して俺を笑ったりバカにする事もなく、面倒をかけても嫌な顔一つしなかった。
彼の目はいつも優しくて、彼の手はいつも温かかった。
バスタブの下に埋め込まれた七色に光るライトが俺の体を照らしていた。
彼も風呂に誘えばよかった……俺は青いライトに照らされながらふとそんな事を考えていた。
フカフカの白いバスローブを着て部屋へ戻ると、彼はソファーに腰掛けてテレビを見ていた。
俺が行くと彼は座ったままで優しい笑顔を俺にくれた。
「何か飲む? コーヒーでいい?」
俺はコクリと頷いた。すると彼は食器棚の前へ行き、そこから白いマグカップを取り出して部屋に備え付けられているインスタントコーヒーの粉をサラサラとその中に入れて同時にポットのお湯を注ぎ込んだ。
ポットから勢いよく噴き出すお湯の音を聞くと、何故かちょっとだけ尿意を感じた。
「はい、体が温まるよ」
ソファーに座って待っていた俺は彼の手から温かいマグカップを受け取り、アツアツのコーヒーを喉へ流し込んだ。彼が入れてくれたコーヒーはとてもおいしかった。
彼は俺の隣に腰掛け、俺が喉をゴクゴクと鳴らしてコーヒーを飲むのをじっと見つめていた。
彼とやっとまともに話をしたのは俺が薄闇の中でコーヒーを飲み干した後の事だった。
「何年生?」
「え?」
「R高校だよね?」
彼は俺の制服で学校を識別していたようだった。
「2年生」
「そうか。僕はN大学の1年生だよ」
へぇ……彼は優秀だ。N大学といえばここいらでは1番頭のいい大学だった。
N大学なんて、とても普通の頭じゃ受かりっこない。俺の通っているバカな高校からは創立以来誰1人N大学へ進学した者はいなかった。
「頭いいんだね」
彼はそんな事ないよ、という様子でかぶりを振った。
でも柔らかそうな短い髪や茶色の優しい目はとても上品で秀才っぽくて、彼がN大学へ通っているというのはすごくしっくりきた。
「名前を聞いてもいいかな?」
彼は秀才ぶりを褒められる事に興味を示さなかった。それよりも、俺の名前を聞く事の方に興味を注いでいるようだった。
俺はその時、一瞬口ごもった。彼を信じないわけじゃなかったけど、本名を教えてもしも今日の事を同じ学校の誰かにばらされたら俺は死ぬしかない。
でも彼は俺の不安をすぐに感じ取ってこんなふうに付け足した。
「本名じゃなくてもいいよ。ただ、なんて呼んだらいいかと思って」
「俺……優二」
俺は彼を信じてすぐに本当の名前を名乗った。一瞬でも彼に不安を見せた事はすぐに後悔していた。
「優クンか。僕はマサト。よろしく」
「マサト……クン?」
俺が戸惑いがちにそう呼ぶと、彼は白い歯を見せてにっこり笑った。
ドキッとするぐらい素敵な笑顔だった。
彼は笑うとエクボが出るんだ。俺はその時初めてその事に気付いた。
「マサトでいいよ。皆そう呼ぶから」
「あの……助けてくれてありがとう」
彼の大きな手はためらいがちにそう言った俺の頭をなでてくれた。
彼に触れられると、なんだかすごく安心した。
俺が濡らしてしまった洋服が綺麗に洗濯されて部屋へ届いたのは1時間後の事だった。
乾燥機にかけられたばかりのズボンはとても温かかった。マサトの手と同じぐらい温かかった。
パンツにもズボンにももうシミはない。これで証拠隠滅は完了だ。これで堂々と家へ帰れる。
でもきちんと制服を着て身支度を整えた時、言い知れぬ淋しさがこみ上げてきた。
マサトももうベッドの前でコートを羽織り、帰る用意をしている。
このままさよならするのは……とても淋しい。
「行こうか」
俺が制服を身に着けると、マサトがそう言った。
俺はその時うまく自分の思いを表現できなかったけど、でももう少し彼と繋がっていたいという気持ちだけは伝えたかった。
俺は彼が着ているコートを素早く脱がせ、それをクルクルとまるめて両手に抱えた。
「これ汚しちゃったから……クリーニングに出してから返すね」
優しいマサトは薄闇の中で微笑み、またかぶりを振った。
「汚れてなんかいないよ」
「……もう俺に会いたくない?」
マサトはもう一度かぶりを振り、優しく俺の頭をなでてくれた。