8.

 その週の土曜日。俺は再びマサトに会った。
彼との待ち合わせは、午後6:00に市立図書館の前。待ち合わせ場所を指定したのはもちろん彼の方だった。 不良で遊び人の俺は、この日生まれて初めて図書館という名の場所へ足を運んだ。
市立図書館はなんの変哲もない灰色の四角い建物だった。 わりと交通量の多い通りに面していて、隣には大きなスーパーがある。 入口横の駐輪場には溢れるほどの自転車が並び、その奥の駐車場には車がぎっしり止まっていた。
俺は図書館の入口の前に白いビニール袋を抱えて立っていた。その中身はもちろんクリーニングを終えたマサトのコートだった。

 マサトは午後6:00ちょうどに図書館の中から出てきてキョロキョロとあたりを見回し、すぐに俺の姿を見つけると優しい目をしてにっこり微笑んだ。
たったそれだけの事で、すごく胸がドキドキした。俺はビニール袋を抱える両手にぎゅっと力を入れた。
「待った?」
彼が俺の目の前に立って初めて言った言葉は、そんな短いものだった。 俺は彼の笑顔を見上げ、針で刺したようなエクボに見とれながら黙ってかぶりを振った。
マサトの優しい目と短く刈り上げられた髪は夕日の色に染まっていた。
彼は白いトレーナーにブルージーンズという服装で、最初に会った時と同じ黒いリュックを背負っていた。その彼の左手に抱かれていたのは難しそうなぶ厚い本だった。 俺は白い表紙のその本に少しだけ嫉妬した。
「あの、これ……ありがとう」
俺は夕焼け空の下でビニール袋に入ったコートを彼に手渡した。 マサトは俺が差し出した袋をぶ厚い本と一緒に両手で抱え、更ににっこり微笑んだ。 今の今まで俺の胸に抱いていたコートが今は彼の胸に抱かれている。 それを思うとますますドキドキした。
なんだか……バレンタインデーにチョコを渡して告白する女になった気分だった。

 マサトは左腕にはめている皮の腕時計をチラッと見て、それから俺を食事に誘った。
「これからご飯を食べに行かない?この近くにおいしい洋食屋があるんだけど……」
「うん、行く」
彼の誘いを断る理由なんか何もない。俺は二つ返事で頷いた。

 それからの約3分間 その間俺はとても幸せだった。
俺とマサトは彼の言う洋食屋を目指してゆっくりと歩いていた。
図書館に隣接するスーパーの前を通り過ぎると歩道沿いに緑色のフェンスが張られていて、その向こうには広いグラウンドがあった。
その時そこには誰1人いなかったけど、いつもは少年野球チームが練習している場所だと彼が話してくれた。
たしかにグラウンドの奥には土の盛り上がったマウンドらしき物があり、その横には野球のボールが1つ淋しげに転がっていた。
午後6:00ともなるとだいぶ日が傾いていて、グラウンドには長く伸びたフェンスの影がくっきりと描かれていた。
「優クン、元気だった?」
道路を走る車の音と彼のハスキーな声が重なった。 夕日色の彼の目に見つめられると、なんだかとても恥ずかしくなった。
「俺は……元気だったよ」
そう言って俯いた俺とマサトの長い影は、歩道の上をゆっくりと歩いていた。
「優クン、僕は……」
彼が何か言いかけた時、背後で「マサト!」と叫ぶ女の声が聞こえた。
俺たちが同時に振り向くと、ピカピカに光る銀色の自転車がすぐ目の前で止まった。 自転車に乗っていたのは髪の短い女だった。目が大きくて、口が小さくて、かなりかわいい女だ。
「由美子……」
マサトがその人の名前を呼ぶと、彼女は白い歯を見せて微笑みながら自転車を降りた。 由美子と呼ばれたその人は大きく胸のあいたブラウスを着て、ものすごく短いタイトスカートをはいていた。 どう見ても自転車に乗るには相応しくない服装だ。
彼女は俺とマサトの間に割り込み、ピカピカに光る自転車を押して歩いた。 歩道の上にも俺とマサトの長い影の間に小柄な女と自転車の影が加わった。

 「由美子も図書館にいたのか?」
「うん。マサトも?」
「僕は3:00からずっといたよ」
2人は見つめ合いながら親しげに会話を交わしていた。 3人の影は確実に前へ進んでいたけど…俺だけ話に入れずにいた。
「マサト、レポートのテーマ何にしたの?」
「民主主義のあり方について」
「ウソ! それ、ちょっと堅すぎない?」
「そうかなぁ……由美子は何にした?」
「私はまだ決めてない」
その話から察するに、マサトと彼女は同じ大学の学生だと思われた。 ほんの少し前までマサトと2人で幸せ気分だったのに、俺はその時激しい疎外感に襲われていた。
そのまま3人並んで100メートルほど歩いただろうか。 ある時突然彼女がこっちを向いて俺の顔を3秒ぐらい見つめた。彼女はその時控えめに微笑んでいた。
「マサトの弟?」
彼女は再びマサトの顔を見つめてそう言った。俺はその時、胸がズキンと痛んだ。
「違うよ。僕には弟なんかいない」
マサトの返事を聞いた時、俺はあまりにも胸が苦しくて思わず立ち止まってしまった。
その事に気付かない2つの影は、立ち止まった俺の影を残して更に前進して行った。 誰かが鳴らした車のクラクションが大きく耳に響き、離れていく2人の会話はもう俺の耳に入らなくなった。

 俺の影が見えない事に気付いてマサトが振り返ったのは、俺が立ち止まってから数秒後の事だった。
彼の影は、やっと止まってくれた。
「優クン!」
マサトは俺の名前を呼びながら右手で手招きをした。 その時彼の左手には、白いビニール袋がぶら下がっていた。
マサトの影の向こうには、もう1つ小柄な女の影があった。彼女はやはり後ろを振り返り、黙ってこっちを見ていた。
「ごめん、俺やっぱり帰る」
俺は2人と2人の影に背を向けて駆け出した。
俺を追いかけて来てくれたのは、物言わぬ自分の影だけだった。